ぼくはここだよ

自閉症の息子デーンがくれた贈り物』
という本のなかに、子どものデーンが、ドライブに行った先で、迷子になり、親たちが半狂乱で探しまわった、という話があった。

 「しばらくしてから、当時の出来事についてデーンと話してみると、彼には私たちの半狂乱の呼び声が聞こえていたという。
「どうして、返事をしなかったの?」と、私たちは聞いた。彼は答えた。「だって、パパとママがどこにいるか知ってたもの」
 自分を呼ぶ私たちの声が聞こえるというだけで、デーンには十分だったのだ。彼には返事をしたほうがいいという概念はまったくなかった。私たちの苦悶には、まったく気づいていなかった。海岸で迷子になったのかと尋ねてみると、彼はそうではないと答えた。通過する車を数えようと道路まで行き、そこで街の明かりに向かって歩くことにしたのだという。」

 これは、よーくわかる。返事をしたほうがいい、とは思いつかないのだ。
 中学生のとき、だったと思うけど、家族と隣人一家と、山にのぼったことがあった。そんなに高くない山。10月だった。
 山の中腹あたりで、わざとそうしようと思ったわけではないが、私はみんなより先に、ひとりですたすた歩いていた。
 連なる山の上に雲の影が落ちていて、それがすこしずつ動いてゆく。
 歩いていると、背後から、私を呼ぶ父や母の声が聞こえた。ああ、呼んでいるなあ、と思った。そんなに遠くない後ろに、みんないるんだなあと思った。
 私の返事が求められている、とは思いつかなかった。
 私はここで元気なので、ほかの人が私の姿が見えないことを心配しているのだ、とも気づかなかった。
 あとで、父に「どうして返事をしないのか。呼ばれてるのが聞こえたら返事をするものだ」といつになく厳しい顔で叱られて、それでようやく、返事が求められていたのだと、わかったのだった。

 その話をパパにしたら、「ああ、だから、あんたは人を怒らせるんだな」と言われた。たしかに、人の話を聞いてない、とよく言われる。聞いてないことはない、耳をすませて聞いている。たぶん、聞く、というのは、ただ聞くということではなくて、返事を(あるいは返事のかわりの表情とか行動とかを)求められているということなのだろうが、そこのところが、わからないのだろう。
 もっとも、そのときすぐにわからなくても、あとになってわかる、ということもある。それで、わかったころには、相手はいなくなっていて、宙に向かって返事したりすることになるのだ。

 ちびさん、こないだ、電車はなんと言っているのか、とおじいちゃん聞かれたときには黙っていて、おじいちゃんがいなくなってから「出発進行って言っているんだ」と答えていたけど。

 その山のぼりのことを思いだした矢先、九州で、家族の登山ではぐれた子が死んで発見されて、胸が痛かった。山のなかで、子どもの名を呼んで、返事がないということの、怖ろしさが、どういうものか、返事しない子どもだった私にも、ようやく伝わったのだが。

 空き地の畑の開墾。ちびさん、命令だけして、親たちを働かせて、自分はふらふら遊んでいるという、とんでもない農場主だが、名誉のために言い添えておくと、水やりのほかに、種まきもちょっとする。
 で、私が開墾してる間、草はらのなかを、ふらふらしている。茂みはふかく、空き地は段々になっていて、ひどいところは道との段差が2メートル以上もある。塀も柵もないので、はしっこには行くなと言ってあるが、ふっと姿が見えなくなったりすると、不安になる。
 呼ぶが、返事がない。
 名前だけ呼んだってしょうがない。
「りくのばかー、聞こえたら返事しろー!」と叫んだら、
「ママ、ぼくはここだよ」
 と、後ろの茂みのなかから、赤いチョッキを着た子がふっと立ち上がったのが、野ネズミか何かのようだった。