燕これから

気づかなかったけれど、燕が帰ってきていた。何年ぶりだろう。去年は帰らなかった。一昨年も。その前は?
昔の古巣に土を足して、増築工事をしていることに、一昨日気づいた。なんかうれしい。ここでまた、卵産むのかしら、子育てするのかしらと楽しみに思ったのに、欠陥工事だったらしく、昨日、増築したところが、ほぼ全部、地面に落ちていた。
燕これからどうするだろう。再建か放棄か……。

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子どもは親のことを、ほとんど何も知らないままに、親に死なれる。と、誰かの本に書いてあった記憶だけれど、知らなくていいんじゃないの、と思ってもいた。私のことを、息子は知らなくていいと思うし。
人間の記憶なんて、半分嘘だし。思い出話なんてあんまりしたくない。身近であるほど、たぶんしたくない。記憶の嘘、記憶の塗り替え、はそこそこに混ざっているかもしれず、それはそれで、生きる知恵かもずるさかもしれず、許せる嘘ならいいのだが、許せない嘘もあるかもしれない。気づいてはいけない嘘に気づいてしまったら、苦い、と思うの。嘘を聞きたくなければ、嘘を語らせたくなければ、そこは注意深く、適切な距離がいる。

父に、記憶の嘘を感じたことはないんだけれど、父と兄と弟の関係は、いろいろと苦かったし、触れれば、いくらか恨みが滲んできそうで、父はまたそれなりに偏屈な人でもあったので、私は、なんとなく、父の話を警戒し、父にあれこれ語らせることを、避けてきたようなところがあるのだが、

聞いておけばよかったと思う話もある、と死んでから気づく。

いつだったか、一緒に城山にのぼって、仕事の話、昔の壁塗りの話を父がはじめたとき、そのこころよさに驚いたことがある。嘘がない。話が濁ってなくて、心の空間がひろびろしている。話の内容も面白かった。棕櫚の皮をはいで、蔵の壁に塗り込んだとか、三和土は海水(にがり)をまいて固めたとか。

家の施工が変化して、左官の仕事は激減し、左官も極端に少なくなり、ほとんど消えてしまいそうな職業になったけれど、13歳で親方に弟子入りして、60年ほど、父がどんな仕事をしてきたのかということは、丁寧に聞いて、記録しておけばよかった気がする。
60年ほどの間に、どれだけの壁を塗ってきたか、それはずいぶん豊かな光景だったと思うのだ。町の姿をこしらえつづけてきたこと。

燕の巣の泥壁見てたら、子どもの頃、父の仕事の現場に、よく遊びに行ったことを思い出した。竹を組んで壁をつくって、泥をこねて塗っていたような時代が、あったよねえ。

燕、どうするかな。待ってるから、もう一度、泥壁塗りにこい。

 

気づくと、車庫の上、蔓薔薇も咲いている。初夏だ。

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