Batang Japan

Batang Japan
というタイトルの映画を見た。
Batang Japan
の意味わかる人、教えてください。

レティ先生の日本にいる甥っ子のクヤ・アルが撮った映画。
日本にいる母親を頼ってフィリピンから出てきた子どもたちの話。
DVDの調子が悪いか、私のパソコンが問題か、DVDとパソコンの相性の問題か、2時間40分を見終えるのに、3日かかった。

映画のなかで、子どもたち、いろいろ苦労するんだが、男の子は別の家庭をもっている母親と一緒に暮らせないし、肉体労働しか仕事がないし、女の子は日本食が食べられないし、仕事がつらくてさぼって母親に叱られて家出するし、それでいろいろ出会いがあって、恋もあって、ひとり暮らしや新しい仕事や仕事が暇になって、電気代や水道代が払えなくてとめられたり、ついに家賃が払えなくて出ていかなければならなくなったり、ビザの問題、オーバーステイで逮捕される人たち、親が誰かわからない子どもたち、いろいろあるんだが、全編、素直で明るい感情が流れているのが、すごく気持ちがいい。
フィリピンで何か賞をもらった映画らしい。

ごはん、食べよう、とか、聞き慣れたタガログ語の心地よさもあるんだけど、一緒にその場にいるという親しさの感じが、ずっとあって、そうそう、こんなふうに生きてるよねという、日常のリアリティが妙にうれしかった。
たしかにクヤ・アルはこんなふうにものを見るだろうなって思った。

クヤ・アルは、15歳で船乗りになって日本に来たという。それからずっと日本で生きて、それからまたフィリピンで暮らして、いままた日本で仕事している、という人の、経験の幅はたいへんなものだと思う。その幅が、クヤ・アルと一緒にいるときの安心感なんだな、たぶん。

いきなり思い出した。99年に、クヤ・アルとレティ先生とグレースや親戚の子どもたちと、フィリピンで一緒に海に行ったことがあった。アルは日本の中古車を改造した車に乗ってて、タイヤの大きさが左右ちがっていて、途中で煙を吐き始めて、「爆発はしないから、大丈夫よ」って言った。
爆発はしなかったけど、修理にものすごく時間がかかって、海についたらもう日が暮れ始めていた。夜、真っ暗な波打ち際で、バナナの葉の上にご飯と焼き魚のせて、(また魚が焼けるのに時間がかかって)食べたんだ。
蛍がいた。アーリータプタプ。
それからマニラに帰ってきたら、真夜中だった。

うーん。あのときは、安心感というよりは、あきらめだった。雨の山道を、なんかおそろしい車で走るんだもん。

07年には東京で再会した。クヤはまた東京で暮らしはじめてた。

10月にレティ先生たちが来日したとき、クヤ・アルが、自分が仕事でいない平日の昼間に、東京観光に連れていって、と言ったのだが、浅草と原宿、と言ったのがなぜか、わかった。
浅草と原宿が映画に出てくる。ここは日本、ここは若者がたくさんいるところ、という背景なんだけど、クヤ・アルが見せようとしたものを、見せることができたかな。たぶん。

映画の最後のほうで、和解した母娘が、一緒にフルーツサラダをつくる場面があって、あのフルーツサラダ食べたい。
フルーツ缶とマカロニとチーズとコンデンスミルクと、ほかにも何かはいってるかも、混ぜたやつ。いつだったか、パアラランの学芸会のときに日本の学生たちも来るからって、彼らのために前夜、レティ先生と娘のジンジンが、チーズをたくさん入れたほうがおいしいとか、あんまり入れると味がかわっておいしくないとか、いいながら、つくっていた、あのフルーツサラダおいしかった。