鉛筆と「生きなおす、ことば」という本と

また1か月がすぎた。寒いので、パソコンのある部屋に近寄らないからね。でも、たまにエアコンかけないと、部屋が水の匂いしてくる。ほうっておくと黴の匂いになるだろう。

鉛筆の話。片付けていて、ちょうど昔の鉛筆がたくさん出てきた日に、息子は大学で専門科目の試験だった。シャーペン不可で、試験に鉛筆5本持ってくるように言われていたらしいが、鉛筆3本しかなかったので、3本持っていった。
すぐに丸まった鉛筆を、教授が横で削ってくれていたらしい。試験3時間あったらしいのだ。(削ってもらった鉛筆、すぐに折れた‥‥のは内緒)

それで、未使用の鉛筆を息子に送った。小学校の頃の新幹線やキャラクターの楽しいやつ。筆圧の弱い子だったので、2B以外の鉛筆はもらっても使えないままだったのだ。いまでもBがいいらしいんだけど。

思い出した。私、高校生のとき、筆箱にいつも切出しナイフ入れてて、授業中よく鉛筆削ってた。ナイフ持ってるとか、鉛筆削ってるとかを、注意された記憶はないが、一度、数学の先生が、下手くそ、といって、見かねたらしい、私の鉛筆全部、きれいに削り直してくれた。

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さらに思い出した。昔、横浜寿町の生活館で、週に一度、識字学校開いてる先生がいて、学校に行けなくて読み書きできないという、私の親たちくらいの世代の、おじさんおばさんたちが来ていて、私も何度か通った。日本人、在日朝鮮人、南米から出稼ぎにきた日系の若者もいた。
教室に入ると、先生が鉛筆をきれいに研いで待ってて、1人1人にお茶を入れてくれた。あれは忘れられない。こんなに、人間扱いしてもらっていいんだ、という感動。

道端に人糞が転がっていたことも思い出すけど、生活館の4階まで階段をのぼり、教室に入ると、ふいに何か清らかな空気に包まれた感じがしたのだった。夜、窓からきれいな月が見えた記憶。

寿町に週に一度あらわれた教室のきれいに研がれた鉛筆。生徒たちは、その鉛筆で自分のことを書く。中華街の皿洗いの仕事が見つかったというおばさんの作文をなんとなく覚えてる。教室で、他の人が、鉛筆を走らせる音を聞くのが、しあわせな気持ちだった。あの音をずっと聞いていたかった。

以前に「ホームレス歌人のいた冬」という本を読んでいたら、寿識字教室のことが出て来て、生徒だったおばさんが取材されてて、私はそのおばさんに会ったことがあると思う。

それで、いまさらながら、大沢先生の本入手。「生きなおす、ことば」。あのころ(私が通ったのは1995年ころ)の教室の気配がたちまち蘇って、何度も本を閉じて泣く。
私も出会ってきた人たちのことが書いてある。

先生のテキストには、詩や短歌や俳句、短い文章が書かれていて、教室では、それらが、生徒たちの心のなかで、はぜる音を聞くような感じがしたのだった。「力にする」というタイトルのテキストには、前の週に書いた生徒たちの作文ものっていた。

突然、すごい恥ずかしさとともに思い出した。そこの教室は、訪れたひと誰でも生徒だったから、私も紙と鉛筆を渡された。

フィリピンのゴミ山のことを書いたのだ。なんて書いたか思い出せないけど。
1995年、ちょうど、パアラランに夏の一か月を滞在したあとで、あのとき、パアラランは資金難で、もう閉じようかとレティ先生は言っていたのだった。どうすればいいのだろうと、NGOの人に会ったり、会う人会う人、お金ほしいって言ってまわったり、途方にくれていた頃、そして支援グループの立ち上げを決意した頃、そのころ。
すると、翌週のテキストに、私の作文ものってて、それは、先生が一文字ずつ書き写してコピーしたもので、私の作文なんかに時間をとらせたことが、いたく申し訳なくて、ひるんだ。

もし大沢先生が生きていらしたら、あのあと、パアラランがどうなったかも、私がパアラランの本を書いたことも、お伝えすることも、できたかしら。

教室には、交通費が、それから電車に乗って移動する気力が、続かなくて、通いつづけることができなかった。

もともとは、フィリピンで出会った学生が、卒論で識字教育をテーマにしたいけれど、ひとりで行くのが不安だから一緒に来てって、それで行ったのが、最初で、彼女が楽しそうに通い始めたので、安心して私は離脱したんだけれども。

本に載っていた、韓国からの出稼ぎのおじさんのエピソードは、私は彼女から聞いたと思う。毎回、教室がどんなだったか、教えてくれて、いつもとてもうれしそうで、彼女が素晴らしいものを見つけていることが、なんかほんとにうれしかったんだけれど。
(そして彼女が、大学卒業後、忽然と消息不明になり、家族や友人の前から姿を消したこと、それから25年以上も過ぎることが、思い至る度に、胸が痛い)

永遠のどこかで、彼女にはまた会えたらいいなと思ってる。

(また思い出した。レティ先生の甥のアルは、もう数年前に亡くなったけれど、10年くらい前に聞いた話かな。彼が15歳で船乗りになってフィリピンを出て、日本で働き始めた最初に暮らしたのが、寿町だった。家賃が600円くらいだったって。60年代、70年代ころ。東南アジアからの出稼ぎ者も多かったことも、本にすこし書かれてる。なつかしいな、クヤ・アル。)

思えばあのころ、言葉が人と人を取り返しつかなく断絶させるという経験に絶望していたころ、他人の言葉も自分の言葉も、どうしようもなく疑わしく思えて、フィリピンで、(私が英語ができないために)むしろ言葉が話せない世界にいることが救いのように思えていたころに。

あの教室は恩寵だった。