幻を見ようと

『小さなことばたちの辞書』(ピップ・ウィリアムズ)という本を読んだ。オックスフォード字典の編纂を背景に、辞書に入れてもらえない言葉を集めはじめた女の子の物語。辞書に入れてもらえない言葉はまず、女性たちの話し言葉なのだが。とてもいい小説だった。

読みながら思い出したのは、祖母たちが使っていた「かわいらしや」という言葉。可憐な「かわいらしい」物語だったから。

「かわいらしや」は、小さい女の子に対しては、かわいい、の意味だが、大人の女性に対しては、かわいそう、に近いが、かわいそうとも違う。苦労があって大変だなあ、けなげでいじらしい、可憐だなあ、という感じ。
女たちの話、だいたい、不幸な恐ろしい話、家族の不幸とか病気とか経済苦とかの噂話で、人生はなんておそろしいんだろう、と思いながら聞いていると、ふと差し挟まれる言葉。その言葉を聞くと、ほっとした。
「かわいらしや」という言葉。共感や慈しみの言葉だったのだろう。

「かわいらしや」と言い合いながら生きていた、故郷の女性たちの、地縁血縁のそこはかとないつながりは、なかなか、かわいらしいと思うんですけども。
あのころ、私の同級生たち、中学を出て病院に見習いで勤めながら、夜間の看護科に行ったりしている子もいて、「かわいらしや」と言ってもらっていた。
「かわいらしや」と私は言ってもらったことがない。家族を助けることもせず、本読んだり上の学校に行きたがる女の子は、かわいらしくないのだった。

学生の頃、方言学の宿題で、祖母の方言を採集しようと試みたけど、途中で叱られるので無理だった。「はよ学校やめて、もんてこい。おまえがもんてきて、してやらな、婆が死んだら、だれが父ちゃんのまんま、作るんぞ」と祖母が泣き出したとき、飯ぐらい自分で作らせ、と冷ややかに思った。私はかわいらしくないのだ。

「かわいらしや」はまず、共感の言葉だ。6歳で奉公に出た働き者の祖母や、戦争と貧乏で小学校しか行かせてもらってない父母たち世代から見たら、家の手伝いもしない、本ばかり読んでる怠け者にどうやって共感しろって話だ。

 

本を読む女の子は使い物にならない、女の子を大学にやったら頭がおかしくなる、とか、大人たちはほんとうにそう思ってたし。しょうがない、大学も大学生も、見たことがないんだから。お皿を洗う子は「かわいらしや」だけど、本を読む女の子は、怠け者なのだ。

 

大好きなんですけどね。かわいらしくない私も、祖母たちの使っていた「かわいらしや」って言葉。

どこにいても、たいていどこにいても、共感したりされたりが難しくて、
中学1年のときの教室で、まわりの女の子たちが話していることが、何ひとつわからない、言葉の意味はわかるけど、何がおもしろくてそんな話をしているのかが、まったくわからない、と気づいたときからの、居場所なさの感じ、正しく存在してない感じ、たぶん人としてどっか駄目なんだろうな、と感じながら生きてきましたけど、

でも、もしかしたら、怠け者には怠け者の、共感のありかたがあり、怠け者は怠け者として、「かわいらしや」ではなかったかと、思ったりする。

 

実家に高校の頃の教科書が数冊残っていたのを、以前に父が「おまえの荷物」と送ってきたのが出てきて、さすがにいらないし、捨てようと思ってまとめていたら、こんな書き込みがあった。日本史の教科書の裏表紙に。
まったく記憶にないけれど、私の字だ。17歳。
考えて考えて思い出した。たぶん、ソルジェニーツィンの小説のなかのフレーズ。確認できないけど。あのころ読んでいて、このフレーズならたぶんそう。
思い出して、いろいろと、なんだろうな、胸の痛さをもてあましたりする。
 
  幻を見ようと私はまぶたをとじた。
  はるかな希望だけが
  時にわが胸をさわがせる