短歌の同人誌、「ES」26号に、谷村はるかさんが、「目の前の人へ──正田篠枝論」を書いていて、これがとてもよかった。
正田篠枝は、原爆を、被爆者の立場から歌った。1910年生まれ。35歳で被爆しているのか、といま気づいた。「さんげ」という歌集がある。
正田篠枝の短歌を、読んでくれる歌人がいるということがうれしかったし、私も読み直そうという元気が出た。
ずっと以前に読んだ。20歳ぐらいのとき。短歌とも思わずに、原爆の資料として読んだ。圧倒的で、引き込まれて読んだあとは、こわくてもうひらけなかった。
それで、ずっと気になりつつ、読み返していないのだ。
それにしても、原爆の惨状を、ほんとに生き生きと伝えていたんだなあと、谷村さんが文中に紹介している短歌を読み返しておもった。「さんげ」から
木ッ葉みぢん崩壊の中に血まみれのまつ青の顔父の顔まさに
炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗つかり夜の明けを待つ
ズロースもつけず黒焦の人は女か乳房たらして泣きわめき行く
筏木の如くに浮ぶ死骸を竿に鉤をつけプスットさしぬ
焼けへこみし弁当箱に入れし骨これのみがただ現実のもの
なつかしい、という気持ちがこみあげました。とてもなつかしい。そうでした。なんにも知らなかった私に、原爆というものを、最初に理解させてくれたのは、たしかにこの一連の歌でした。
自分が短歌を書くようになってからは、はじめて読み返すんだけど、秀歌である、というのに同感です。
原爆短歌にはいろいろあるけど、異様な読みやすさだったのは、ああそうか、秀歌だからなのか、といまさらな納得をした。
被爆者の眼というより、記録者の眼が働いている。
「あの鮮やかななり代わりを可能にしたのは「歌わねばならぬ思い」ばかりでなく、彼女の高い構成力、描画技量、つまり真っ当な歌人としての能力なのだ」(谷村)
正田篠枝がどんな歌人であるかを、短歌そのものからつかみ取ってきていて、とてもいい正田篠枝論と思う。こんなふうに読み直しされてよかったなあと思う。
歌に、ごくあどけないまなざしがあるなあと思う。
このまなざしをたよりに、読み直せると思った。
「さんげ」は昭和22年、GHQのプレスコード下で発行された。そのことについて、「耳鳴り」という本のなかで正田はこう言っている。
「原子爆弾という名前を知らされました。このために即死され、またあとから亡くなられたひとを、とむらうつもり、生き残って嘆き悲しみ、苦しんでいる人を、慰めるつもりで歌集『さんげ』を作りました。
その当時はGHQの検閲が厳しく、見つかりましたなら、必ず死刑になるといわれました。死刑になってもよいという決心で、身内の者が止めるのに、やむにやまれぬ気持ちで、秘密出版をいたしました。
無我夢中で、ひそかに泣いている人に、ひとりひとり差し上げさせていただきました。」
「耳鳴り」から
かなしみにたくさん会ったわたしゆえわかるのだけどこのひと死ぬよ
原爆にあいしひとみな病状がよく似ているでほほえみかわす
最後に、詩人の栗原貞子の証言が紹介されていて、ちょっと泣きそうになった。
「正田篠枝は「原爆を売り物にすると言う。原爆が売り物になるなら、売って売って売りまくりたい。原爆の作品を書くことでアカに利用されていると言う人がある。利用価値があるなら、左でも右でも利用してほしい。私の作品が、原爆をつくろうと言うことに利用できるはずはない」と泣きながら語った。」
☆
ヒロシマの被爆者の、語り部やそうでない人たちの、努力、といえばいいのか何ていえばいいのか、思いというのはすごいものがあって、政治的な運動などではない、それぞれの立場での努力というのは、何かすごいものがあって、正田篠枝の「さんげ」なども、そのような努力のひとつだと思う。
せんだって、広島在住の詩人、御荘博実さんの詩集『川岸の道』を読んで、
イラク戦争も津波も原発事故も、その「いま」が、原爆のことと二重写しになっていくさまに、
あの原爆を体験したり、寄り添った人のまなざしのありようを、思ったのだけれど、ヒロシマはいまもそんなふうに息づいていると思う。
原爆投下後の広島で、被爆者に寄り添った正田篠枝の短歌は、いまもあるあらゆる苦しみの場所に届く普遍性をもっていると思う。
谷村さんの正田篠枝論に励まされたので、読み直そうっと。図書館にあるはず。