共犯者たち

『記憶 ホロコーストの真実を求めて』
ヒルバーグの自伝。

ヒルバーグが言おうとしていることを、つきつめてしまうと、加害者も被害者も傍観者も、ともに共犯者である、ということになると思う。理屈としては明快である。ともに大きな犯罪の構成員であるのだから。被害者がいなければ、加害者もいない。人々が傍観しなければ、被害者たちはガス室までゆかずにすんだだろう。

でも現実の問題として、被害者が、自身を犯罪の共犯者と認識できるかといえば、それはもう断じて受け入れがたいだろう。被害者は無垢である。けれども、被害者が加害者を求める心情は、共犯者を捜す心情であると思う。その犯罪が何か、悪が何か、知っているのは、実は被害者だけなのだが、自分を苦しめる悪がどこからきたのかを、被害者は問わずにいられないし、それはもう加害者を求めるしかないのだ。かかえこまされた犯罪の共犯者といっては、加害者しかいないのだから。

で、失望する。加害者の側に、自分のくるしみに見合うほどの、何かくるしみが見つけられれば、まだしも救いだが、そこにあるのは、たいていは自分の犯罪に気づいてさえいないかもしれない間抜け面だろう。
そのことが悲劇的なのだ。

被害者が加害者の罪を背負わされる。そこに絶望がある。不合理で残酷だ。もしかしたら気が狂う。被害者は厳然と被害者なのに、加害者のように扱われたら。
でもいつかは、自分を被害者であると思うよりは、共犯者であると思ったほうが救いがあるかもしれない。被害者はかわいそう。いつまでも被害者のままでいては、「かわいそう」から自分を救い出してやれない。罪は、罪を犯したものが背負うものではなく、負う力のあるものが負うしかない。加害者は、罪を負う力がないからほとんど無自覚に加害者なのだ。


あの男が死んで困っている。
いや別に困っていないが、一生顔見たくないと思ってから20年以上会わないままだったし。子どもの私に、その後の人生にずっとひきずってしまうような、いくばくかの混乱と苦しみをもたらした男のひとりだが、自分が私に何をしたかなんて、きっとそんなことには何にも気づかずに死んだのだろう。ずいぶんかわいがってももらったのだ。私は男の、お気に入りの小さな女の子だった。

共犯者たちはいなくなる。ほんとうにいなくなるんだ。
人生で学んだことって、なんかそういうことだわ。