加害者の闇?

「心の闇」というような言葉を見るようになったのはいつからだろう。少年犯罪の凄惨さに度肝を抜かれたジャーナリズムが言い出したような気がしているが。こんなにうさんくさい言葉もない、と思う。
「心は闇」と言い換えた短歌をどこかで見た。思い出せないけれど、こちらのほうが、まだまし。

「加害者の闇」というような言葉を、また最近、こともあろうに詩の雑誌に見つけて、ほとんど絶望しそうな気分。

もったいぶって、そこになにかありそうに見せかける言葉を使うのはやめてほしい、と思う。そこになにかある、闇だから、見えない。見えないけれど何かありそうだ。そのあたりで思考は停止し、硬直する。

「悪」に中身があるもんか。中身がないから、悪なのである。

ミヒャエル・エンデの短編に「郊外の家」というのがある。ナチス・ドイツの時代を風刺しているのだが、そこでは「悪」は中身のない外側だけの家、として描かれる。「加害者の闇」があるとしたら、それは中身がない、ということである。

加害者の闇、などというものを、加害者のなかに見ることはできない。ヒトラーの闇は、虐殺されたユダヤ人そのものである。それは同時にまじめな公務員たちの闇でもある。だが、彼らはその闇を所有していない。

大東亜共栄圏を信じて、アジア各地で虐殺を行ってきた、かつての日本の青年たちに、どんな闇があるものか。暴力が正当化されるシステムの手先になっただけである。

悪の転移。悪が何かを知るのは、その悪の被害者だけである。悪を受けとめた被害者がその悪を自分のところにとどまらせずに、転移すれば、その被害者は加害者になる。転移させまいとして苦しむときに、はじめて闇が生まれる。闇がほんとうに闇としてあらわれるのだ。闇を抱えもつことが聖性につながり得るような、道があらわれてくるかもしれないのだ(ただし、その道を歩めるとは限らない)。

加害者はまず被害者である。自ら受けた暴力を、他に転移するから加害者となる。のであるとしても、そこにあるのは、被害者の苦しみであって「加害者の闇」ではない。

犯罪ののちに、被害者のなかに、あえて求めて取り戻しにゆかなければならないものが、「加害者の闇」である。みずから転移に荷担した「悪」、自らの犯罪におびえて苦しんで死ぬことができればまだ幸いなのだ。実際は、ついに 闇など抱えもつことのできない、うすっぺらな、中身のない悪人のほうが多いのではないか。

悪は偏在している。絶望をもたらすのは、偏在する凡庸な悪である、と思う。どこにでもある弱いものいじめ。自己保身とか排他性とか。ありふれたエゴイズムとか。女たちのまき散らす愚痴。男たちの嫉妬。特別な闇などない。

わたしたちに欠落しているのは、そのような日常のありふれた凡庸な悪と戦うための、日々を明るくするための、なにかまっとうな哲学である。