過ちは繰り返しませぬから

新年早々、

「4日午前0時50分ごろ、広島市中区平和記念公園にある原爆慰霊碑に金色の塗料のようなものが吹き付けられているのを警備員が発見し、広島中央署に通報した。同署が器物損壊容疑で調べている。
 慰霊碑には横書きで「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」との碑文が3行に分けて刻まれている。このうち「過ちは」以下の2行の部分をなぞるように吹き付けられていた。」
http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012010401000545.html
というニュース。

☆☆

年末に、「原爆文学研究10」が届いた。
以前は、こんな胸騒ぎはしなかった。「原爆文学」は過去の文学だったのだ。完了形、だと思っていた。いまはそれが現在形、未来形に見えて、不穏だ。

そこに「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」をめぐって、次のような文章があった。

「街を記録する大田洋子」(川口隆行)から。

「二〇一一年六月九日、村上春樹は、カタルーニャ国際賞授賞式において、戦後の日本社会がヒロシマナガサキの体験を忘却し、「効率」「便宜」という価値観に無批判に追従した結果、フクシマが出来したのだという趣旨のスピーチを行った。「非現実な夢想家」を標榜し、国境や文化を超えた、トランスナショナルな「精神のコミュニティ」を構想すべきだと訴える姿勢に、「それはそうだとうなづきもしたいが、スピーチの端々に見え隠れする奇妙な歴史語りに、強い違和感を覚えたのもまた事実である。」

(村上氏のスピーチの引用)
「広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。」
(引用ここまで)

「原爆投下の責任をあえて問わないといい、慰霊碑碑文をめぐって続けられた論争の歴史にも一切触れずに、核の前ではみんな被害者であり、加害者であるという。
 これは、いったい、六六年前の敗戦後に唱えられた一億層懺悔と、どこがどう違うというのか。このスピーチには、原爆投下の責任を追及する姿勢はむろんのこと、他者の責任の追及を通してそれをみずからの責任につなげようとする発想など生まれる余地はない。加害と被害が複雑な関係を切り結ぶ現実を直視することから人々を遠ざけ、すべての責任を雲散霧消することにさえ手を貸すだろう。それでは、「過ち」は、また「繰り返」される。
 フクシマを語るにあたって呼び出された、あまりにも平板なヒロシマナガサキの記憶。ヒロシマナガサキとフクシマをつなげようとする思想的・文学的営為は、個別の歴史の位相を無視し、過去と現在の差異すらも消去してしまう、こうした平板な歴史語りによって実現されるはずはない。」

☆☆

六月に村上氏のスピーチを読んだとき、正しくて、もっともらしくて、うさんくさい、と思った。そのうさんくささが何かを言い当ててもらって、胸がすっとした。

被害者であり加害者である、なんていうのは、レイプされた少女に、レイプされたのはおまえも悪いんだ、と言っているような、いじめられた子どもに、いじめられるのはおまえも悪いんだよと、言っているようなものだと思う。
そんな理屈は私はいやだ。そんな理屈に、たくさん苦しめられてきたから、ほんとうにいやだ。レイプは、したほうが全面的に悪い。いじめは、いじめるほうが百パーセント悪い。原爆は落としたアメリカが悪い。
たったそれだけのことを、この国の大人ははっきり言わないのだ。

むろん人間は、被害者でもあり加害者でもあるものとして存在するんだけれども、被害者はいつでも加害者になり、加害者もまた被害者になったりするんだけれども、ひとつひとつの場面で、被害者は被害者として声をあげ、加害者は加害者として罪と向き合う、ということがなかったら、人間の尊厳なんてなしくずしに崩されてゆく。

チェ・ゲバラが、広島に来たときに、ここまでのことをされて、どうしてアメリカを憎まないのかと、言ったそうだ。
それがとても新鮮に聞こえたのは、原爆はひどいけれど、誰がそれを落としたかは問わないのがあたりまえのようだったから。

でももしかしたら、アメリカはひどい、って言わなかった日本は、言わなかったから、日本はひどい、って隣国に言われても、何を言われてるか、わかんないのだろうか。

論文はさらに、「3・11以降、日本というナショナルな空間のいたるところに、無数の差違が顕在化し、いまもなお、悔しさや憎しみ、そして絶望が示されていると感じられてならない。」
では、どのようにして差違を直視し、その構造をあきらかにし、架橋し、希望としていけるのか。
という問いから、本題の大田洋子論に入っていく。

大田洋子を読み直そうと思った。

世間とは、差別(差違)の異名だと、聞いたことがある。差違があるのが人間の現場だ。思うに、もっともらしく正しい言葉が、もっともらしい正しさのなかに、差違をぬりこめると同時に、個の尊厳を奪ってしまう残酷さをもつかもしれないことに、気をつけなければいけない。

きっと、正しさにすがりつきたいほど不安なときはよけいに。

☆☆

ところで、最近子どもが、ママの真似をする、から、ママと張りあう、に変化してきている気配。私が「原爆文学研究」読んでいたら、自分は「広島の原爆」という絵本引っぱり出してきて、お正月、ずーっと読んでいた。一応ふりがなついてるが、文字も小さいし、それ、相当むずかしい内容よ。
リトルボーイがどうだとか、水爆とか中性子爆弾とか、半径何キロ焼け野原になるとか、ビルは壊さないで、人間だけ被爆させるとかどうとか、そういうことを、憑かれたように喋りつづけられるとこわい。
「ママ、ここは黒い雨降ったの?」
それはいい質問。ざんざん降ったらしいよ。

そういえば、アスペルガー症候群関連の本とかも、子どもの本棚にいつのまにか移動しているし、読んでるし。一応、子どもでも読める内容になってるやつだけど。自分に関係あるとか、わかるのかな?

8歳。あなどれない年齢になってきたかなあ。最近口ごたえも多いしなあ。