共生

1995年夏、
パアララン・パンタオが、ゴミの山の学校が潰れそうだったとき、私は1か月マニラに滞在していて、マニラ在住の、パアララン・パンタオを知っている人たちのところを訪ねて、それは救いをもとめて訪ねたんだわ。
すると言われた。フィリピン人はなまけものだから。それにお金で解決する問題じゃないのよね。
驚いて声も出なかった。「子どもたちは働いています」
それだけ言ったけど。
クーラーのきいたオフィスで、たいして疲れもしないオフィスワークをしてる人が、ゴミのなかで働いている人たちに対して、「フィリピン人はなまけものだから」っていう。長く住んで、フィリピンのことをよく知ってるって顔して言う。
お金で解決する問題じゃないっていう。お金がなくて教師がやとえずに、電気代も払えずに、存亡の危機に立たされてるんだって、私は言ってるのに。

パヤタスなんて土地は差別されてる。どこにいるの、ってきかれて、パヤタスにいるって言ったら、危ないよって言われる。行かないほうがいい。ゴミの山があったり差別や貧困があったり、そういうことが変わっていかないと、なんにも根本的な解決にはならないって言う。その根本的な解決とやらを待ってる間に、子どもたちは教育を受けられないまま、大人になってしまうだろう。

関わりたくない、見たくないって、この人は言ってるのだ。
それならそう言え。話を聞くふりをするな。味方だという顔をするな。心を痛めてるなんて顔するな。

日本に帰って、パアラランを訪れたことのある人たちに、支援の継続を呼びかけたら、これがまた冷ややかだったのだが、お金をあげることは、彼らのためにならないんだって、パヤタスに行った人が言っていたよ、って聞かされたときには呆然とした。
それでそう言った人は、ゴミの山や子どもたちの映像を見せて、交流したり支援してきたんだ、と自分たちの活動を自慢していたそうだ。
現場では、レティ先生が疲労で倒れそうになっていたのに。
共生、って言ってたそうだ。

彼らの支援したプロジェクトが失敗して学校は困窮していたんだが、それを直視する勇気はだれもなさそうだった。

そのころ、私はまだ若かったので、ふかぶかと傷ついた。
自分たちがしてることは、本当に正しいのかどうか、あれこれ言われて傷つく度にためらいながら、ひるみながら、それでも一緒に寄付をあつめてまわってくれた、あのときの学生のみなさん、ありがとう。



といったことを、思い出した。
昨日の知事のついったー、にもあったな。共生って。
共生って。
共生だって。
涙出てくる。
五族共和って言葉に、似てないか。

相手の立場に立たない共生なんて、ありえないだろう。