千年の愉楽

どうしようかなあと思ったんだけど、今さらなあ、とも思ったんだけど、
見に行くことにした。映画「千年の愉楽」。
大好きな小説でした。

あのころ、中上健次が路地の話を書いてくれて、私はそれで、なんとか、自分が後ろにしてきた故郷とか、家族とかと、向き合えた。自分ではとても見つめられないと思うあたりを、小説はまるごとすくいとってくれるようだったのだ。

李良枝と中上健次がたてつづけに逝ってしまったのが、20年くらい前かしら。あれはとてもたよりない気持ちになった。

それで若松監督の遺作。

もう細部は忘れているけれど、昔小説を読んだときの印象と、映画のそれとは、当然ながら全然違うんだけれど、

早い話、ろくでもないことして若死にする男らの話やないか、なんかもう恥ずかしいよなと、思いつつ映画館を出たのが、歩きながら泣いてた、私。

寺島しのぶ演じるオリュウノオバの前に、中本の若い衆らがあらわれる。きれいな顔の男らで、いきがって、白い背広やら白い帽子やら、身に着けて。

母が死んだあと行方不明だった弟が7年ぶりにあらわれたとき、彼は23歳か24歳か。帰省したら駅に迎えに来ていて、その恰好が、白い背広に白い(黒い、どっちだったろう)帽子に赤いマフラー、とにかくそんな恰好で、田舎の駅ではあまりに異様で、めまいがしそうだったのを、思い出した。

弟は、映画のなかの中本の一統ではなくて、ただの私の弟だから、きれいな顔でもないし、女にももてないが、阿呆ぶりはまったくこんなふうだったよ。

想像力がないから救われるということもあるなあと思う。私は、せいぜい二十歳過ぎの弟が、入れ墨したり小指を落としたりしたことについて、想像することが当時できなかったし、いまもできないし、したくない。

嘘くさいよなあ、と思いながらスクリーンのなかの路地の男らの入れ墨やら、ろくでなしぶりを見ながら、でもこれがありのままの現実でもあったので、
あれこれと思い出す。
あたりにころがっていた、くすりの話、ばくちの話、うわきの話、どれもこれも、ろくでもなくて、母親たちは泣いていた。

もうさ、年よりは死んだし、親しかったお兄ちゃんも死んだし、土地もすっかり変わってしまったし、なんかもう、私があそこで見たり聞いたりしてきたいろんなことは、いったい、運命だったのか、幻だったのか。

ずるいな、死んでしまって。登場人物らも若死にさせたが、作家も若くて死んでしまって。飯場のほかに働くとこもなくて、土方現場転々しながら年とってって、やがて食えなくなってみじめで、生きのびたらそんなだったりするんだけど、でも作家も長生きして、そのあとまで、つきあってくれないとさ。

と、思ったりした。



道を歩けば風船をもらえる日だったらしい。街はフラワーフェスティバル。待ち合わせ場所にパパと風船をもった子があらわれたのが、ふつうの親子連れに見えて新鮮だった。