晴朗なディグニティ(尊厳)、晴朗な日々のディグニティ、
という言葉に励まされて、掃除にとりかかった。昨日の午後。
5分後に後悔した。なんだか途方もない。終わらない。
家のなか、気づくと足の踏み場なくなっている。貰ったもの、拾ってきたもの、あれこれたまっていくのだ。それでそれを片付けられないままで、押し入れのなか、棚の上におさまりきらないものがあふれ出している。
とりあえず、他のすべてのことは見ないふりをして、まず台所だけ片付けようと思った。が、片付けていると、だんだん腹が立ってくる。
なんでこんなにモノが多いのか。
パパは、モノがなくなると、不安に襲われるらしい。買い物すると同じものを必ず2つか3つ買う。なくなったときに困るからだという。それで1つなくなったらまた2つ買う。場所をとる。どこにしまったかわかんなくなる。そのうち賞味期限がきれたり、しまったまま忘れて、また新しいものが増えていたりする。
一方で、モノが増えると、私はやる気を失っていく。なければ考える。なくなった、何を代用品にしようかしら、とか。だけど、いつも2つも3つもころがっていたら、なんかもう、どうでもよくなっていくんである。
ごはんぐらいは何とかつくるけど。食器もなんとか洗うけど。
あとはもう台所からは逃避したいいっしんで。
普段の逃避のツケがまわってきているだけなので、片付けるしかない、掃除するしかない。収納が少なくて苦労するが、多かったら、もっと途方もないことになっているに違いないので、がまんする。
それにしてもいろいろとあるもんだ。引っ越ししたり亡くなったり、じゃまになるけど捨てるにしのびないでいる年寄りたちのところから、いろんなものがやってきてる。食器棚におさまりきらないなあ、と途方にくれてながめながら気がついた。
気づいた。こんなにたくさん食器があるのに、ふだん使っているのは、10年同じ皿である。しかも縁が欠けたままの。
私、気にならないんだ、縁が欠けてても全然。というか、縁が欠けたぐらいで捨てられないんだな。
子どもに、家のなかを片付けたいから、きみがいま、抱え込んでいるアマゾンの箱を捨ててもいいか(十数個のアマゾンの箱が部屋のなかにごろごろしているのを、毎晩、部屋のすみに積み直さなければ、布団が敷けないのだ)ときいたら、子ども「え、あれはビルだよ」と抗議する。
それから、しょんぼりうなだれて、涙ぐむ。
パパが味方する。ビルに青い窓をひとつひとつ貼っていくのだってたいへんだったんだよなあ。捨てるなんてひどいよなあ。
ああ。私たちは似ている。がらくたを拾ってきて、そのがらくたを捨てられない。がらくたに依存して暮らしているからでもあるが、必要でないがらくたも、もしかしたら必要になるかもしれないと思って捨てられないのだ。
ドングリをためこむリスみたい。
この家、3匹のくるったリスが棲んでいる。
アマゾンの箱は残してやることにした。でも、また別のビルになるかもしれなかったり、学校の工作でいるかもしれない牛乳パックやペットボトルその他は(これがまたいくつもごろごろしていて)、まだゴミの顔をしているものは、捨てる。
縁の欠けた皿と茶碗も、捨てる。かわりに、パパがこないだ、福祉バザーの手伝いに行ったときに売れ残り品を捨て値でひきとってきたのを使おう。
お皿3枚出した。フランダースの犬。非売品みたいだよ。
わあ、パトラッシュだあ、と思って、なんでいらないものを買ってくるのよという怒りも一瞬に消えて、その他の無駄遣いもまとめてゆるせる気分になってしまった。
子どもはアニメの「フランダースの犬」を知らない。ただの少年と犬の絵にしか見えない。絵本は以前に読んでやったけど、絵もちがうし、覚えてないな。赤毛のアンの絵皿もある。とりあえずそれはしまったんだけど。
今から掃除のつづき。まだ台所の3割しか片付いていない。
という言葉に励まされて、掃除にとりかかった。昨日の午後。
5分後に後悔した。なんだか途方もない。終わらない。
家のなか、気づくと足の踏み場なくなっている。貰ったもの、拾ってきたもの、あれこれたまっていくのだ。それでそれを片付けられないままで、押し入れのなか、棚の上におさまりきらないものがあふれ出している。
とりあえず、他のすべてのことは見ないふりをして、まず台所だけ片付けようと思った。が、片付けていると、だんだん腹が立ってくる。
なんでこんなにモノが多いのか。
パパは、モノがなくなると、不安に襲われるらしい。買い物すると同じものを必ず2つか3つ買う。なくなったときに困るからだという。それで1つなくなったらまた2つ買う。場所をとる。どこにしまったかわかんなくなる。そのうち賞味期限がきれたり、しまったまま忘れて、また新しいものが増えていたりする。
一方で、モノが増えると、私はやる気を失っていく。なければ考える。なくなった、何を代用品にしようかしら、とか。だけど、いつも2つも3つもころがっていたら、なんかもう、どうでもよくなっていくんである。
ごはんぐらいは何とかつくるけど。食器もなんとか洗うけど。
あとはもう台所からは逃避したいいっしんで。
普段の逃避のツケがまわってきているだけなので、片付けるしかない、掃除するしかない。収納が少なくて苦労するが、多かったら、もっと途方もないことになっているに違いないので、がまんする。
それにしてもいろいろとあるもんだ。引っ越ししたり亡くなったり、じゃまになるけど捨てるにしのびないでいる年寄りたちのところから、いろんなものがやってきてる。食器棚におさまりきらないなあ、と途方にくれてながめながら気がついた。
気づいた。こんなにたくさん食器があるのに、ふだん使っているのは、10年同じ皿である。しかも縁が欠けたままの。
私、気にならないんだ、縁が欠けてても全然。というか、縁が欠けたぐらいで捨てられないんだな。
子どもに、家のなかを片付けたいから、きみがいま、抱え込んでいるアマゾンの箱を捨ててもいいか(十数個のアマゾンの箱が部屋のなかにごろごろしているのを、毎晩、部屋のすみに積み直さなければ、布団が敷けないのだ)ときいたら、子ども「え、あれはビルだよ」と抗議する。
それから、しょんぼりうなだれて、涙ぐむ。
パパが味方する。ビルに青い窓をひとつひとつ貼っていくのだってたいへんだったんだよなあ。捨てるなんてひどいよなあ。
ああ。私たちは似ている。がらくたを拾ってきて、そのがらくたを捨てられない。がらくたに依存して暮らしているからでもあるが、必要でないがらくたも、もしかしたら必要になるかもしれないと思って捨てられないのだ。
ドングリをためこむリスみたい。
この家、3匹のくるったリスが棲んでいる。
アマゾンの箱は残してやることにした。でも、また別のビルになるかもしれなかったり、学校の工作でいるかもしれない牛乳パックやペットボトルその他は(これがまたいくつもごろごろしていて)、まだゴミの顔をしているものは、捨てる。
縁の欠けた皿と茶碗も、捨てる。かわりに、パパがこないだ、福祉バザーの手伝いに行ったときに売れ残り品を捨て値でひきとってきたのを使おう。
お皿3枚出した。フランダースの犬。非売品みたいだよ。
わあ、パトラッシュだあ、と思って、なんでいらないものを買ってくるのよという怒りも一瞬に消えて、その他の無駄遣いもまとめてゆるせる気分になってしまった。
子どもはアニメの「フランダースの犬」を知らない。ただの少年と犬の絵にしか見えない。絵本は以前に読んでやったけど、絵もちがうし、覚えてないな。赤毛のアンの絵皿もある。とりあえずそれはしまったんだけど。
今から掃除のつづき。まだ台所の3割しか片付いていない。