帰り道で

学校から帰ってきた子どもが、ドアの外に立ったままなかに入ってこない。
「ぼく、今日は学校でトイレに行かなかったんだ。それで、バスにのって、バスからおりて……」とえんえん説明がつづく。
つまり、バス降りてからの帰りの坂道で、もらしちゃったんだな。
「でも、だれにも見つからなかったんだ」
と言う。もらしたことより、ばれなかったことのほうが大事である。
それでもって、ばれなかったので、はればれした顔である。
(なのに、ここでばらしてるきみの親は、まったくひどいと思うよ。)

わかったから、しゃべるのはいいから、さっさとお風呂場に行って、全部脱ぎなさい。
やれやれ。
幼稚園のときは、あんなに毎日、帰りの道で側溝の蓋の穴をめがけて、上手におしっこしてたのに、なんでできなかったの。
「あー、だって、ランドセルがおもいし」
なるほどね。
たしかにランドセルは、よくそれでバランスとって歩いてると思うほど大きいし重いし。
ほかの子どもたちもパトロールのおじさんもいるところで、ズボンをおろす度胸はないかもな。
あのさ、ズボンをさげてお尻出さなくても、おしっこできる方法があるから、パパに教えてもらうといいよ。
もらしたり、道でしたくなかったら、バスに遅れてもいいから、学校でして帰る。バスはまた来るから。どうすればいいか自分で少し考えて、工夫して生きようよ。

それはそれとして。

数年前に隣の町で学校帰りの1年生の女の子が殺されるという事件があって以来らしいのだが、下校の子どもたちを老人会のおじさんおばさんたちが、毎日、当番で見守り活動してくれていて、家の前まで送ってくれる。

それはありがたいし、安心なのだが、自分をふりかえってみると、学校帰りの道草ができないというのは、小学校時代の思い出の半分が消えてしまうようなことだなあ、という気もすこしする。
もちろんどこかに、大人の目はあったのだろうが、見られてもいたのだろうが、子どもとしては誰にも見つかっていないつもりだからこそ、道ばたでおしっこするとか、あれこれの草を食べてみるとか、犬になった気分で水たまりの水を飲んでみるとか、木登りするとか、つばめの死骸を拾うとか、親に見られたくないテストやプリントはどこかに捨てて帰るとか、いろいろできたのだ。

と考えて、子どもが私みたいなことをするかもしれないと思ったら(やりかねない)、いややっぱり、パトロールのおじさんおばさん、ありがとう。