パラダイス

2002年、拉致の事件があきらかになったとき、戦争の頃、予科練にいたおじいさんが言った。
「日本はもっとひどいことをしてきたぞ」
そのおじいさんは、戦後、神戸で警官をしていた。夜の巡回で見かけたいかがわしい場面とか、妻や娘にはむろん内緒のあれこれの話もしてくれたんだが、上司の警官のなかに、戦争中、朝鮮半島で警官をしていたという男がいた。仕事は若い娘をさらってきてトラックに乗せることだった。それを、今日は何人、今日は何人、と報告していた。
「わしは聞いた。従軍慰安婦は、民間がやったことだとか、ふざけたことを言うな。国がやったことだ。警官がやったと言ったんだ。記録だってあったはずだ」とものすごく怒っていた。

拉致問題のとき、在日朝鮮人の人たちがどんなに胸を痛めているだろうと思った。拉致の痛みをもっともよく理解できるのは、それをされてきた彼らであろうと思ったから。

けれども、その彼らがもっとも憎まれた。
朝鮮学校はその日から集団下校、ジャージ通学、教師たちは始発の電車で、一番遠い駅から通う子どもを迎えに行き、帰りはまた送っていった。何ヶ月も何ヶ月も。ホームページへは悪意の書き込みが殺到した。

拉致被害者の悲しみは悲しみとして、そこでなぜ、かつて日本が、朝鮮半島の人たちにしてきたことの罪深さを問いなおすとか、彼らに与えた痛みに思いをはせるとか、そういう視線が出てこないのか。

そうできれば、何かがちがっていたはずなのに。

人間的な共感が生まれてくることも可能だったはずの場所を、ずたずたに引き裂いたものは何なのか。

そうして、みなそれぞれに痛ましい孤立のなかに追いやられている。

「自分がしてきたと同じことをされて、なぜ憎むのよ」
と私、昔、男に言ったことがあるが、それでもどうでも憎しみがとまらない。消えてくれ。というのが、向こうの言い分だった。
じゃあ最初っから呼ばなきゃいい。憎みたければ憎めばいいが、どこに消えるんだ、いったい。と思ったが。
ま、個人のことなら、憎みあって別れりゃいいが。目の前から消えればそれなりにさばさばするが。

いったい、無償化除外はあんまりだろう。拉致問題が進展しないことの八つ当たりにしたって、子どもへのいじめは、情けなさ過ぎるだろう。相手の国がどうかは関係ない。今ここにいる子どもの権利を毅然と守れない大人が、国を守ることができるなんて、絶対信じない。

肖像画が気に入らないか。でも日本人はそれを外してはいけないし、外すよう圧力をかけてはいけない。いけないのだ。
もし、北からミサイルが飛んできて、そのミサイルで両手がちぎれたら、そのちぎれた両手を差し出して、お願いです、この手ではずさせてください、とお願いするぐらいのことはしてもいいかもしれない。
そういう話なんだと思う。
と、パパが言った。
とんでもない言い方だが、正しいと思う。

他者とともに生きるって、そういう覚悟のことだ。
この国は日本人だけのものじゃない。



トニ・モリスンの『パラダイス』という小説を、思い出した。

舞台は、黒人だけが住む町はずれの修道院で、そこには白人の女も含めていろんな女たちが、それぞれの不幸を抱えて逃げ込んでいたが、けんかはあっても排斥はなく、道徳的でもなかったが、人間的な共感でつながっていた。
その修道院が、襲われて、女たちが惨殺される。
襲ったのは町の男たちで、彼らは、彼らの規律に従わない修道院の女たちが、町をめちゃくちゃにすると思ったのだ。彼らは彼らなりに、町を守ろうとし、女子どもを守ろうとしたのだろうが、彼らに従わない、修道院のはずれ者たちの存在を、ついに許せなかったのだろう。
ずいぶん以前に読んだので、細部まではおもいだせないんだが。
そんな話。

人間的な共感が生まれる場所を、それは無数にあるはずの、その可能性のひとつひとつを、大切にしてゆくほかに、平和なんかないだろな、と思う。

そして、人それぞれが抱えた不幸は、他者との共感をはぐくむことのできる可能性としてあるのであって、そうであれば、この世はたちまちパラダイス。

でもほんとに、踏み荒らすことばかり、するんだな、実際のところ。差別するし、いじめるし。
たぶん、人間の歴史は、パラダイスを求めて、地獄をひろげるようなことを、ずーっと繰り返しているし。
暴力は伝染する。
悲惨なものはその同類を憎む。
他人の不幸は軽蔑に値するが、自分の不幸は神さまより大事。

という悪癖を、なんとかまぬがれたいと、思います。

『パラダイス』はとてもいい小説だった。
惨殺の結末にいたる小説だけど、パラダイスへの可能性はいつだって開かれている、という小説でもあった。