Rについて 4

ひきつづき朴寿南さんの文章。
追いつめられてゆく少年の、自己疎外の果ての犯行。

「仮りの舞台でのお芝居がおわるときがくる。就職、高校進学、あるいは、初恋──それは思春期にやってくるのだ。戸籍簿が要求されるとき、わたしたちは、存在証明として登録されている、自己の本名を見る。それから、逃れようがないことも。 少年が大手企業への就職を望んだとき、優秀な成績でありながら、その門はひらかれなかった。少年の最初の『社会の一員』としての参加は社会が望み期待する像に適応すべく、みごとな仮象となった少年を拒絶したのである。なぜなら『金子鎮宇』は、どこにも存在しないもの、〈にせ者〉にすぎない。この国に登録されているのは、『韓国』籍の『李珍宇』である。しかし、少年にとっては『李珍宇』こそが自分でないものである。(略)『李珍宇』である自己を失い、そして『金子鎮宇』という仮面に同化し、並の日本人以上の人格をわがものにしたものなのだ。仮象が、その存在への加入を否認されたとき、人生への参加そのもののために、朝鮮人である自己を死んで、生きようとしてきた少年は、もはや朝鮮人ではないものである。〈にせ〉の日本人〈金子鎮宇〉は、日本人の存在の外へ、朝鮮人としての自己の外へ、二重に追いやられたのだ。再び、少年は、非存在の虚空へ、もはやいっさいの瞞着も偽装も通用しないところ、世界から断たれた深淵へ失墜していく。」

「その実力において、はるかに引き離していた級友たちが、少年が希望した職場に入っていくが、少年は一年近くも取り残される。ようやく拾われたのは、同胞が経営する鉄工所であるが間もなく倒産、家族の飢餓は一層悲惨である。飢えさえも〈悪〉として、この恥さらしな〈泥棒〉の一家の孤立は、部落の中でも二重に疎外されたものだ。ひと握りの米粒さえ借りるところがない。少年は、同胞を白い目の他者たち以上に憎んでいく。少年は自己を肯定するどのような像からも遠く隔てられ自己の可能性を見うしなっていったのだ。少年は、こののっぴきならない飢えの窮地が〈チョーセン〉であり、泥棒が〈チョーセン〉であり、この人間のものではない現実が〈チョーセン〉であること、そして、もはや自分もまたあれほど憎んできた前科持ちの〈犯罪〉である父や叔父のように、〈チョーセン〉であるものとしてしか、生きようがない窮境が自分の人生であることを思い知らされるのである。百日もの飢餓の底で(父親は刑務所の中だ)、打ちのめされた唖の母と六人の弟妹たちが、ただじっと、死んだように横たわっていた日々、少年は自転車と腕時計を学校から盗む。そして、わずかの米粒と麦と、そして豚の臓物に換えたのであった。『──いつかは返すんだ』と呟きながら──。」

「一方で、少年の飢えた魂は手当たり次第に盗み出した文学全集を漁り、やがて、ドストエフスキーカフカに喰らいつくのである。窃盗非行歴四犯──家裁処分になったこの「犯罪」の三犯が、図書万引きと、図書館からの図書窃盗である。五十二冊に及んだ、四犯目の図書窃盗が発覚しかけたとき、少年は首を吊って死のうとして失敗している。少年はひん死の自我と、もはやのっぴきならない存在の危機──犯罪の露見を、死によって免れようとしたのだったか──。あるいは「犯罪」そのものとしてしか生きようがないおのが自身を、死によって実現しようとしたのであったか。この生きるに耐えがたい矛盾としての自己を突き抜けようとする狂気は、容易に死に変貌するのである。」

「少年は、死に損なったこの事件から一ヶ月にならない春の宵、最初の人殺しを遂行する──あたかも、永遠の自死を完遂するもののように──。
 しかし、存在の根そのものから疎外された少年の犯行は、あたかも少年が自己自身ではないもののように、もはや真実の体験でさえないものである。少年は逮捕された後、自白や手記でも繰り返し、呟いているように、犯行の体験が『夢』のようにしか感じられないのだ。」

続きます。