あどけない写真

高群逸枝」の評伝に次のようなくだりがあった。

──昭和2年3月の「婦人公論」が、朴烈と金子文子の警務所内での写真について、「「問題の怪写真」を見た刹那の感想」というアンケートを掲載した際、逸枝の言葉がひとり異質の共感をたたえていた。「あどけない写真でありました。/可哀想に」と。さらに同年十月の「全人」(第十四号)で「日本の婦人と愛のこころ」と題し、前記アンケートの回答者達の冷酷さを、「少なくとも女の愛は、常識、道徳、法律、国家、かうしたすべてのものを超越すべきである」と批判した。──

朴烈と金子文子の写真はこれ。Img170 


むかし二十代の頃に文子の獄中手記「何が私をかうさせたか」を読んだときの胸の痛さを思い出す。
復刻版。どこでどうして手に入れて読んだか、思い出せないんだけど。朴烈や文子への、いわゆる関東大震災のときの大逆事件のことなど何にも知らないで読んだんだけれど。
ほんとうに素直であどけない、まっすぐな文章だった。
もっていることを私はすっかり忘れていたけれど、思い出して探してみたら、歌集まで私は持ってる。

 眞白なる朝鮮服を身につけて醜き心を見つむる淋しさ

というような短歌が目にとまる。歌集には、文子の獄死のあと、娘とはほとんど一緒に暮らすことのなかった母親が証言した記事も収録されていた。
朴烈と暮らしだしたころの娘に会ったときの話。

「わたしはあの当時のことを想うと文子が全くの男であって、いわゆる女らしさを全然失っていることに驚いたというより外はありません。その頃断髪でいたし、朝鮮服を着て、男用の鞄を下げて、殆んど一日中何か所かを歩き廻っては、朝鮮人参の行商をやり、傍ら雑誌を出していたようでした。ですから朴との生活は、男女の二人であっても極めて仲のよい男の共同世帯のようなものでした」

母親からは、全然理解できない娘だったのだろう。
どうして社会主義思想にかぶれたかを聞く母に、娘は、朝鮮の伯母のところへあずけられたときに万歳事件に遭遇したこととかも、話したようなのだけれども。

「文子はその頃朝鮮の万歳騒ぎを目撃したことや、貧しい百姓のこと、学校で受けている×人の差別待遇等のことを話し出してしまひにはオイオイと声を上げて泣き出してしまうのです」

それで娘がどうしてそうなったかは、わけがわからないままに、わからなくてもやっぱり私が悪いのだと、母親はそう語る、という記事内容なんだけれども。

手記も歌集も、さすがの復刻版で、文字がかすれて読みにくいんだけれども、なつかしさに、しばらく読みふけった。
こんなのも目にとまる。

 上野山さんまへ橋に凭り縋り夕刊賣りし時もありしが

検索したらこんなの見つけたので貼っとく。
http://www.maeda-akira.net/texts/hikokumin/hikokumin_04.html
 
叛逆という言葉が、美しい。


「あどけない写真でありました。/可哀想に」