解放

ことのついでに「高群逸枝」(鹿野政直 堀場清子 朝日選書)を読んでいる。
関東大震災のときの震災日記。朝鮮人来襲のデマが伝わり、人々は長槍などをもちだし、戦闘態勢の騒ぎになった。そのときの日記に次のように。

「三件茶屋では三人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。(中略)たとえ二百名の者がかたまってこようとも、それに同情するという態度は日本人にはないものか。第一、村の取りしまりたちの狭小な排他主義者であることにはおどろく。(中略)じつに非国民だ。いわゆる「朝鮮人」をこうまで差別しているようでは、「独立運動」はむしろ大いにすすめてもいい。その煽動者にわたしがなってもいい」(九月二日)

それから90年たつんだけれど、昨今の朝鮮学校への高校無償化除外その他の仕打ちは、「村の取りしまりたちの狭小な排他主義者であることにはおどろく」というほかないようなことだなあ、と思う。

逸枝が、女性解放の歴史的根拠を求めて、研究生活にはいるときに、「兎に角、女性史だけは必ず完結せしめて、もし許されるならば、それによって多少とも、日本婦人の有史以来の鬱屈を晴らし」といっている。その決意と成し遂げた研究、日本古代の母系制の研究であるとか、婿取り婚のことであるとか……ほんとにすごい。
古事記からはじまって、文献を一冊ずつ、とほうもない数のカードをつくりながら読みこんでいった作業を考えると、ふるえがくる。

その彼女の、女性解放の原理を求めて古代共同体へ向けた思いが、神道に結びついてゆくのは、理解出来ないでもない。戦時中の大政翼賛的な言論は、もしかしたら憧れの激しさの分だけ、神国日本とか八紘一宇の時代思想に翼賛してゆくことになったのだが、
なんていうか、悪魔は、よいものもわるいものも、あらゆるものを総動員して、戦争を遂行したんだなあ、という感じがする。
きっと多くの人のたどった心のなりゆき、なのだろうが、「祖国への愛」のあまりにも自然ななりゆきが、暴力と破滅に奉仕した、というのは、つくづく哀れでむごたらしい。

☆☆

靖国に放火しようとした男が、日本に引き渡されるのでなく、中国に送還された、というニュース。
韓国は韓国らしく、中国は中国らしく、日本は日本らしい、態度決定でありコメントだと思う。
NHKニュースは言わなかったんだろうが、男の祖母は日本軍の慰安婦だったらしい。
だからといって、放火犯を擁護する気はさらさらないが。
たとえそれが、自分の「鬱屈を晴ら」すためでなく、お婆さまの「鬱屈を晴ら」すためであったとしても。
擁護する気はさらさらないが。

でも、そういうことなら、靖国は燃えてもいいんじゃないか。
放火されるのを待たずに、みずから燃え落ちていいんじゃないか。
だってそこには、女の子たちを、拉致してレイプして使い捨てて殺した夥しい実行犯たちがいるんだろう。
放火なんかされる前に、恥じてみずから燃え落ちればよいと思う。
恥じて、みずから。

「英霊」であることなんかから解放されて。
このうえなくみじめなひとりの男にもどればよい。

海の向こうにはこのうえなくみじめなひとりの女がいたんだから。