ガッサーン・カナファーニーを読んでいた。
「ハイファに戻って/太陽の男たち」(河出書房新社)
帯に、
「パレスチナの終わることなき悲劇にむきあうための原点」とある。
ガッサーン・カナファーニー
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そのなかに「路傍の菓子パン」という短編があって、難民キャンプの子どもと、教師の、ふれあいの短い話なのだが、読んで、ひどくなつかしい感触がした。
思い出したのは、金史良の「光の中に」という作品。あれも、教師と子どもの話だった。日帝時代に、日本に渡ってきた朝鮮人の青年教師と、母親が朝鮮人の子どもの話。
金史良
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追い詰められた子どもの姿が似てるのだ。貧困や暴力やみじめさ。
そう、みじめさの形式が似ている。
このみじめさの背後に、イスラエルやニッポンという国家の暴力がある。差別と抑圧の共通する構図がある。その構図が、子どもたちの身の上には、みじめさの形式としてあらわれる。
まずもって、告発の文学なんだけれど。
でも、これらの物語が美しいのは、みじめさによってではなく、そこに差し込んでいる光によってだ、やっぱり。
その光のことを考える。外からは差してこない光。
内側からの痛みのような光。
カナファーニーも金史良も36歳くらいで死んでいるんだなあと、気づいた。ふたりとも闘いのなかで。
カナファーニーや金史良の作品のなかの青年教師が、問題児たちに、欺されながらも、何か吸い込まれるように関わってゆくのは、
子どもたちのみじめさのなかに、自分たちの、あるいは民族の運命を見ているからでもあるけれど、それ以上に、みじめさから(子どもから)疎外されることが、希望から、光から見捨てられることであることを、きっと本能的に知っているからであるような気がする。
☆
そういえば、中学生のとき、モーパッサンの「女の一生」を読んで、何が書いてあるのかさっぱりわかんなかったけど、圧倒的なみじめさの感触だけは、心に残ったなあ、とか、思い出したけど。
文学からみじめさをとったら、何が残るか。
みじめさの形式。
いろんな場面を思い出すんだけど。
つきつめれば、生きて、死ぬ、ということが、すでにそうだし。
みじめさへの耐性がいる。尊敬心がいる。
よい文学は、それを励ましてくれる、と思う。