みじめさの形式

ガッサーン・カナファーニーを読んでいた。
「ハイファに戻って/太陽の男たち」(河出書房新社
帯に、
パレスチナの終わることなき悲劇にむきあうための原点」とある。
ガッサーン・カナファーニー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC

そのなかに「路傍の菓子パン」という短編があって、難民キャンプの子どもと、教師の、ふれあいの短い話なのだが、読んで、ひどくなつかしい感触がした。

思い出したのは、金史良の「光の中に」という作品。あれも、教師と子どもの話だった。日帝時代に、日本に渡ってきた朝鮮人の青年教師と、母親が朝鮮人の子どもの話。
金史良
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%B2%E8%89%AF

追い詰められた子どもの姿が似てるのだ。貧困や暴力やみじめさ。
そう、みじめさの形式が似ている。

このみじめさの背後に、イスラエルやニッポンという国家の暴力がある。差別と抑圧の共通する構図がある。その構図が、子どもたちの身の上には、みじめさの形式としてあらわれる。
まずもって、告発の文学なんだけれど。

でも、これらの物語が美しいのは、みじめさによってではなく、そこに差し込んでいる光によってだ、やっぱり。

その光のことを考える。外からは差してこない光。
内側からの痛みのような光。

カナファーニーも金史良も36歳くらいで死んでいるんだなあと、気づいた。ふたりとも闘いのなかで。

カナファーニーや金史良の作品のなかの青年教師が、問題児たちに、欺されながらも、何か吸い込まれるように関わってゆくのは、
子どもたちのみじめさのなかに、自分たちの、あるいは民族の運命を見ているからでもあるけれど、それ以上に、みじめさから(子どもから)疎外されることが、希望から、光から見捨てられることであることを、きっと本能的に知っているからであるような気がする。



そういえば、中学生のとき、モーパッサンの「女の一生」を読んで、何が書いてあるのかさっぱりわかんなかったけど、圧倒的なみじめさの感触だけは、心に残ったなあ、とか、思い出したけど。

文学からみじめさをとったら、何が残るか。

みじめさの形式。
いろんな場面を思い出すんだけど。
つきつめれば、生きて、死ぬ、ということが、すでにそうだし。

みじめさへの耐性がいる。尊敬心がいる。
よい文学は、それを励ましてくれる、と思う。