今まで使っていた無料ホームページが、
「iswebライト」は2010年10月31日をもってサービス提供を終了いたしました。
長年ご愛顧いただきありがとうございました。
ということになり、別の無料ホームページに引っ越しました。
パアララン・パンタオのホームページはこちら
http:// www.fur eai-ch. ne.jp/p ayatas/
引っ越しがやっとで、更新はできてませんが、どうか見捨てずにいてください。ときどきこっそり更新します。2003年夏からいままで、いろんな出会いをつくってくれたホームページです。これからもよろしく。
野樹のホームページはこちら
http:// www.fur eai-ch. ne.jp/k azu3/ka zumi/
これもほったらかしですが、まだ生かしておこうかと。
そのうち更新します。たぶん。
☆
パアラランのホームページをつくったのは、その夏、パアラランに行けないからだった。で、なぜ行けないかというと、腹のなかに子どもがいて、私はすこし動くと、すぐに気分が悪くなるという妊婦をしていたからだった。
で、その子どもが、昨日まで6歳だったのが、今日から7歳。
おめでとうおめでとうおめでとう。
ケーキは昨日の夜に食べて、今日の夕方、その残りを食べた。
妊娠したとき、まず思ったのは、紙くずを処分しなきゃ、ということだった。
13歳から書き続けてきた日記であるとか、あれこれのノート類とか、手紙の類とか、そういうもの、子どもが隠れてこそこそ読むようになる前に、処分しなきゃ、と思ったのだ。
でもまあ、子どもが文字を読むまでには6年くらい時間があるわと思ったのに、ああ、なんにも処分しないまま、7年が過ぎてしまったわ。
昔のノート類、押し入れの奥で埃かぶってると思うけど、なんで、それがおそろしいかっていうと、私自身が子どもの頃に、押し入れにもぐって、兄が女の子からもらった葉書であるとか、ノートにかきつけた詩のようなものであるとか、読みあさる子どもだったからだ。そのころうちに入り浸っていた死んだくーやんが、大学のころのことを書いた短い手記も読んだ。ブロバリンのんで、らりってたとか、いう話だったけど。きっと私なんかに絶対読まれたくないだろな、と思うようなものを、隠れてこそこそ読むのがお楽しみだったのである。
もの読んだり書いたりする家族ではなかったので、両親のものはほとんど何もなくて、兄の本にはさんであった女の子の葉書も数枚だったけど。
それで、自分がしてきたことを子どもにされると思うと、なんかすごーくいやなのだ。いやなのだが、片づけて処分する気力はもうないし、あろうことか、私はまだあれこれ書き続けているし、紙くずのかわりにパソコンのなかにぐちゃぐちゃ溜まってるし、整理できないし、ああもう隠せないし。
どうしていいかわかんないよ。きみが育っていって、どんなふうに、紙くずのなかの母親を受け入れるのか、受け入れられないのか、考えると気の毒だ。
隠れて、人の日記なんか読むんじゃないよ。死ぬ前には処分したいけど、もし処分しそこねていたら、読まないで、燃やすんだよ。
11月1日。万聖節。
「iswebライト」は2010年10月31日をもってサービス提供を終了いたしました。
長年ご愛顧いただきありがとうございました。
ということになり、別の無料ホームページに引っ越しました。
パアララン・パンタオのホームページはこちら
http://
引っ越しがやっとで、更新はできてませんが、どうか見捨てずにいてください。ときどきこっそり更新します。2003年夏からいままで、いろんな出会いをつくってくれたホームページです。これからもよろしく。
野樹のホームページはこちら
http://
これもほったらかしですが、まだ生かしておこうかと。
そのうち更新します。たぶん。
☆
パアラランのホームページをつくったのは、その夏、パアラランに行けないからだった。で、なぜ行けないかというと、腹のなかに子どもがいて、私はすこし動くと、すぐに気分が悪くなるという妊婦をしていたからだった。
で、その子どもが、昨日まで6歳だったのが、今日から7歳。
おめでとうおめでとうおめでとう。
ケーキは昨日の夜に食べて、今日の夕方、その残りを食べた。
妊娠したとき、まず思ったのは、紙くずを処分しなきゃ、ということだった。
13歳から書き続けてきた日記であるとか、あれこれのノート類とか、手紙の類とか、そういうもの、子どもが隠れてこそこそ読むようになる前に、処分しなきゃ、と思ったのだ。
でもまあ、子どもが文字を読むまでには6年くらい時間があるわと思ったのに、ああ、なんにも処分しないまま、7年が過ぎてしまったわ。
昔のノート類、押し入れの奥で埃かぶってると思うけど、なんで、それがおそろしいかっていうと、私自身が子どもの頃に、押し入れにもぐって、兄が女の子からもらった葉書であるとか、ノートにかきつけた詩のようなものであるとか、読みあさる子どもだったからだ。そのころうちに入り浸っていた死んだくーやんが、大学のころのことを書いた短い手記も読んだ。ブロバリンのんで、らりってたとか、いう話だったけど。きっと私なんかに絶対読まれたくないだろな、と思うようなものを、隠れてこそこそ読むのがお楽しみだったのである。
もの読んだり書いたりする家族ではなかったので、両親のものはほとんど何もなくて、兄の本にはさんであった女の子の葉書も数枚だったけど。
それで、自分がしてきたことを子どもにされると思うと、なんかすごーくいやなのだ。いやなのだが、片づけて処分する気力はもうないし、あろうことか、私はまだあれこれ書き続けているし、紙くずのかわりにパソコンのなかにぐちゃぐちゃ溜まってるし、整理できないし、ああもう隠せないし。
どうしていいかわかんないよ。きみが育っていって、どんなふうに、紙くずのなかの母親を受け入れるのか、受け入れられないのか、考えると気の毒だ。
隠れて、人の日記なんか読むんじゃないよ。死ぬ前には処分したいけど、もし処分しそこねていたら、読まないで、燃やすんだよ。
11月1日。万聖節。