南京三月

名古屋の市長が、南京事件はなかったと言ったらしい。
阿呆が。こういう阿呆は、軽蔑されて唾棄されて終わりだと思うんだけど、そうでもなさそうなところが、この国はどうしてこうも無惨なんだろう。
見つけたので貼っておきます。

「暴を以て暴に報ゆる勿れー蒋介石の戦後捕虜取扱い方針ー」
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/bouwomotte.html

昔、「南京・広島・アウシュビッツ」っていう本があった。学生の頃、読んでなきゃ恥ずかしいぐらいの本と思ってた。今どこにしまいこんだか、出てこないんだけど。
「南京・広島・アウシュビッツ」だよ。じゃんけん・じゃがいも・さつまいも、とか、グリコ・パイナップル・チョコレート、とか、それくらいポピュラーな、言葉の並びだった。南京・広島・アウシュビッツ
ホロコースト、大量無差別虐殺とは何か、という内容の本だったと思う。
南京事件がなかったっていうのは、広島・アウシュビッツがなかったって言うのとおなじようなことだと思うんだが、阿呆すぎるだろう。

私、昔、南京に行った。
1985年3月16日。学生訪中団で、故小林文男先生に連れられて、40人ばかりぞろぞろと。学生なので、事前に、勉強会というのをするんです。私は蘇州があたったから、のんきに漢詩読んでましたが、南京があたった学生たちはたいへんで、あれこれとおぞましい資料を読まされて葛藤していた。虐殺した側の日本兵の手記もあったと思う。

目撃証言も資料も、怠け者の私でさえ目にするくらいなんだから、たくさんあると思う。虐殺したんだよ。

カメラを私はもっていなかったけど、一緒に行った人たちからもらった写真がすこしある。1985年3月16日、寒い朝で、南京大虐殺記念館は、建設中だった。
Img038 Img039 
 





カメラもってる学生の横の、見えないけど赤いマフラーしてるのが私だなあ。私たちを眺めている労働者たち。突き刺さるような視線だった。背広を着ているのは通訳さん。ひとりは、祖父母を日本兵に殺された人だった。

Img040 足もとの土に白い欠片が散っているのを、これは骨の破片だろうかね、とささやきながら歩いた。あちこち掘り返して、遺体の発掘をしていて、私たちは、掘り返された穴を、のぞいた。写っているのは骨。




  穴のなかの人骨をのぞきこんでいた南京三月底冷えの朝

写真を撮っていいのでしょうかと、たずねた先生に、「クーイー」って答えた責任者の声が、まだ耳にある。握手した手のあたたかく力強かったことも。

その日、虐殺の生き残りのお婆さんのお話を聞く予定だった。でもあんまり寒くて、リウマチが痛むから、ということで中止になって、残念だった。

虐殺された死体のなかに、死んだふりして隠れて、生きのびた、という少年の話はどこで聞いたのだったろう。

バスに乗り込むとき、私たちは中日友好の新しい未来をつくりましょう、と、通訳さんが励ますように言ってくれた。

もし、南京事件がなかったのなら、あの日、私が見たものは何ですか。小林先生はなぜ、私たちをあそこへ連れていったのでしょう。
犠牲者の骨でないなら、誰の骨を私たちは眺めていたのか。あの寒い朝、労働者たちのまなざしに、さらされながら。