桃源郷

 ブランコの板をかかえて目をとじて(嵐の海で船はこわれて) 
 ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まようパレット
                 やすたけまり『ミドリツキノワ』

やすたけさんの歌集を読んでいたら、小学校の何年だったろう、友だちのちょうちん袖の影を、そのきれいな丸いふくらみを、うっとりながめながら歩いた、夏の午後を思い出した。一日が夢のように長かった。

詩人の多田智満子さんに「十五歳の桃源郷」というエッセイがある。戦争中の疎開のときの話。国が滅ぶかもしれなかったときに、私は桃源郷にいました、という話。十年かもうすこし前、うっとりと読んだ。

「今にして思えば、一九四五年の春から秋まで、愛知(えち)川のほとりで暮した私は、一種の桃源郷を体験したのである。大都会が次々と焦土と化し、国の内外で何万、何十万、何百万もの人々がむごたらしく死んでいったあの時期に、私ひとり東京の町をのがれて、美しい風光のなかでのんびりと暮していたのである。大人であれば、たとえば私とともに田舎暮らしをした母にしても、それなりの心労があったと思うが、私は幸い思春期の子どもであって──しかも私はおくてのほうだった──、まったく生活に責任のない立場であった。」

「学校へ行く必要もなく、井戸の水汲みといった単純な日常の仕事のほかには、これといってしなければならない用事もなく、青田に風が渡るのを眺め、蛙が鳴きしきるのを聴き、散歩に出ては林のなかにしゃがみこんで、茸が茶色の帽子をもちあげるのを眺めていればよかった。時間はゆるやかに流れ、せわしく秒を刻む時計の音はきこえてこなかった。修羅道と餓鬼道を現出させていた戦争末期の世相をよそに、片田舎に仮寓した私はいわばエアポケットのなかにいたのである。これは少なからずうしろめたいことだとしても、しかし私にとっては稀なる幸せというべきであった。」

例の山下先生が、放射能対策について、福島地方の新聞に「子供には苦労をさせるべき。ストレスの中できちんと自己判断する苦労(以下略)」と語っていたらしいのを見かけたときに、強い憤りとともに、思い出したのでした。
「十五歳の桃源郷」。
子どもはストレスのなかでなく、桃源郷のなかを歩くべきだわ。

多田さんの「十五歳の桃源郷」検索したら、自分の古いブログに行きあたった。
http://kazuming.wordpress.com/2006/05/15/%E7%89%87%E7%9B%AE%E3%81%A4%E3%82%80%E3%82%8A/
その前後読んだら、子どもまだ2歳なんだね。すっかり忘れてたことなども思い出して、しばしなつかしく。

外に出るともう夏。
追いつめられて、ようやく衣替えすませた。

学校から帰ってきた子どもは机にひろげた宿題につっぷしたまま、夢のなか。