それは支援につながるのか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160515-00000009-asahi-soci

障害のある子どもを小学校から高校まで一貫して支援し、進学や就労につなげるため、文部科学省は進学先にも引き継げる「個別カルテ(仮称)」を作るよう、各校に義務づける方針を固めた。通常学級に通う比較的軽い障害や発達障害の子どもも対象で、2020年度以降に導入する。


というニュースに驚いた。それはどうなんだろう。
まず、発達障害の診断は誰がするのだろう。うちの子の場合、幼児期に何度も療育に通って時間をかけて検査して、診断されたけど、すべての親子が、療育に行くわけでも診断を受けるわけでもないし、気づかれない発達障害はたくさんあるし、実際は、診断されないまま、問題行動を起こしたり、学校がつらかったりするケースの方が多いと思う。問題行動や不登校などがきっかけで、療育に行っても、ドクターとの信頼関係ができなくて、かえって傷ついて行かなくなることだってある。
診断されても、その診断を受け入れることを拒否する親子もいる。
そしてそれは、自由だと私は思う。拒否してもよいと思う。
なのに、学校でカルテを作成するなんてことは、できるのだろうか。もしカルテをつくるとしたら、恣意的なものにならざるをえないのではないだろうか。

何よりも、子どもの利益のための発達障害の診断であるべきと思う。
うちの子の場合、幼児期の診断で、発達の特性を親が把握できて、無駄に困惑せずにすんだし、幼稚園や小学校低学年で、担任や学校に理解と配慮をしてもらったことはよかった。
でも、小学校3年のときのいじめは、教師が息子の障害特性を、息子の欠点ととらえて指導したことで、いじめる側を増長させたし、それは私はすごく怒って抗議したけども、
教師の側に発達障害の知識や理解があるとも限らず、適切なケアができるとも限らないのに、カルテの記載なんて、かえって誤指導につながりかねないと思う。文字として記録され固定化される不安のほうが大きい。
発達障害なんて、多種多様、千差万別なのに、本人の特性によっても環境によっても成長過程によっても、必要な支援の在り方も違ってくるし、支援が必要ではない、個性の範囲におさまる場合だってあるのに、カルテがあることで、不必要な誤解や差別を招くことだってあるかもしれない。

発達障害を障害ととらえるか、個性ととらえるか、それだってナイーブな問題なのに、子と親と教師の信頼関係がなければ、カルテなんてレッテル貼りか差別にしかつながらないし、当事者としては、教師の(本人が見ることのできない)カルテに、発達障害と書かれることは、いやですね。
たぶん、多くの親子が、いやだと思う。カルテに書かれることがいやで、診断を受けるのを拒否する親子も出てくるのではないだろうか。そして受けられるはずの療育や学校での支援を受けられなくなるということも出てくるのではないだろうか。療育の可能性をかえって狭めてしまうことにならないだろうか。

発達障害をカミングアウトするのは、子どもの利益のためであって、必要な支援を求めるからですけど、本当は、カミングアウトしなくても、必要な支援や配慮はしてもらうべきだし、カミングアウトは、当事者親子の判断によるべきで、教師のカルテによってされてはいけないんじゃないだろうか。それが子どもの不利益にならない、必ず利益になる、という確信はあるんだろうか。
先生から次の学校の先生への申し送りは必要なこともあるだろうが、カルテとして記録されていくことは、危険もあると思う。
とても懐疑する。


中学生になった息子は、いまのところ支援や配慮の必要は全然なさそう。聴覚の過敏も、吹奏楽部に入れなくて残念、というぐらいのことだし、運動音痴と不器用は、体育と技術家庭の点数を押し下げるだろうが、高校受験の内申に関わると思えば悩ましいが、高校受験のない学校だし。息子にとっては、小学校よりずっとわかりやすい環境で、楽しそうだし。
念のため、特別支援担当の先生が誰かは確認した。