ぼくはママをゆるさない  10

あの手紙を渡したあと、校長室で、校長教頭担任の3人から、申し訳ありませんと頭を下げられたときに、担任の気持ちだけは本当だとわかったが、あのあと、担任は上から目線ではなくなった。自然体ですっきりとやりとりができるようになった。

帰ってきた子どもに、今日どうだった、ときくと、「よかった」と言った。彼が、「今日どうだったとは、聞かないで、ただご苦労さんとだけ言って」って言ったのは、冬のはじめだったかな、あのときに気づけばよかった。どうだった、ときかれても、「楽しかった」と答えられなくなっていたんだ。
よかった、と言えるようになってよかった。

漢字検定で悲願の100点満点をとった。いままでいつも数点足りなかったのだ。「ああ、10回も見直したかいがあったよ」
心のこもった文字でしたよ。

後悔を言えばきりがない。胸を噛まれる感じだ。
学年のはじめに、子どものソーシャルスキルに心配があることを担任に伝えていたんだけど、だからたぶん、トラブルが起きるのは私の子どものせいだと担任は思いこんでしまったんだろう、よけいな指導ばっかりして、結果として、いじめはひどくなり、その発見も遅れた。

今日たまたま、近所のお母さん、息子が優秀なのにほとんど中学に行けずに、卒業後働いている、お母さんとお話してたら、人とのトラブルが多くて、小学校のときから気になって担任に相談したんだけど、担任がごく普通ですよ、っていうのでそのままにしてしまった。中学になったころには反抗期もあって、診察もできない状態。小学校のときに連れて行っておけばよかった、って言う。

学校の先生って、何してるんだろう。

なんかおかしい。
私が教頭に同じ手紙を渡すというまで、担任は教頭に報告してなかったし、たぶん、私が怒って書かなかったら、表面的な対応で(だからいっそう悪くしたままで)終わったと思う。

これは想定内のいじめだと思う。
どれくらい前よ、私が小学校のときに目撃したいじめとおんなじ光景が、繰り返されているのに、それに対して、どうするのかというスキルを、教員がもってないってどういうことよ。どういうふうに対処されるかは、個々の教員の能力とか偏見とかに左右されるしかないってどういうことよ。

800人もいる学校で、毎年いろんな問題が起きると思う。それなのに、学校全体としてのスキルもなければ、職場で問題を共有するという意識もない。いじめは起こるべくして起きていると思う。

学校の先生にものを言っていくのは疲れるね、って今日会ったお母さんとお話したんだけども、私もほんとに疲れた。これで担任に話が通じなかったら、絶望感しか残らないところだ。
たいていのお母さんは、何か言っていくこともできないんじゃないかしら。先生に向かって親が、あんたもいじめに加担したんだって言うのは勇気がいるよ。どっか壊れないと、思ったって言えないと思う。
それで学年がかわったら、また最初っから理解してもらわなきゃいけない。
ほんとに、親をこんなに疲れさせて、学校は恥を知れと思う。

そうして不思議なのは、子どもが同級生をいじめたという連絡を受けているはずの親から、いまだに、ただひとりの親からも、謝罪の電話も訪問もないってことだ。
担任がどんなふうに伝えたのかわからないけれど、ふざけがすぎたぐらいにしか思ってないのかもしれないけど、でもそれにしても、自分の子どもがそういうことをしたら、担任に相手の連絡先をきいて、頭を下げにゆくのがふつうだと思う。それで親が人に頭を下げる光景を見て、子どもは自分がしたことの意味を少しは感じる、というのが、古典的な態度ではないだろうかと、思っていたんだけれども。
来てほしいかっていったら、来てほしくないですけど、あやまってもらったって傷は癒えないし。でもそれでもやっぱり、それは必要な光景じゃないかと思うんだけども。
私が子どものときに、ひどいめにあったとき、そのお母さんが泣いてあやまってくれたのは、救いになってる。傷は癒えないけど、この世への信頼をつなぎとめる糸の一本にはなってる。

子どもが何かでいじめられる度、わかるかぎりは、あやまってもらってきて、もう20人超えますが、そういえば親があやまってくれたのは、ほんの数人。あとは、自分の子に謝るように促したぐらいで。
親の姿もかたちも見えないのが半分以上。今回も。

いじめの温床をつくっているのは、大人たちだよ。