育つ

あさがお、昨日ひとつ、今朝ひとつ。えらいなあ。
パパと息子がラジオ体操に行っている間に、私は畑の水やりに行く。
正しい朝のはじまり。
きゅうり2本、プチトマト3つ、ねぎ、しそ、バジル収穫。オクラとピーマン、えだまめもそろそろ。なすもかぼちゃも花が咲いている。

コスモスの種、昨日は芽が出ていたのに、今日は消えていて、ショックだ。ダンゴムシが食うらしい。レタスは全滅させられたし。
種から育てたキャベツは、育っているけどキャベツになる気はないらしい。景気よく葉っぱをひろげて、つまり全然巻く気配なく、虫の食卓になっている。まあいいや。

畑の朝顔は、色とりどりに元気に地を這っている。支柱を立てるのをさぼったせいで、何もかも地を這っている。きゅうりもプチトマトもゴーヤもトマトもフウセンカズラも。

野菜より元気なのは、草で、草、草、草、カヤのすんすん勢いよく伸びること伸びること。

子ども、夏休み帳の日記、たった一行なのに、何書いていいかわからん、という。わからんかったら畑に行けば。きゅうりぐらい、もいでこれるよ、と言うが、ひとりで行けないのだ。たった100メートルの距離だろうっ。
昔々、朝日新聞天声人語が人気だったことがあったっけ。試験問題によく出てきた。中学生か高校生のときだ。本が出ていて、図書館で読んだのかな、書くことに困ると、動物園に電話する、と書いてあったのを、なぜかそれだけ記憶している。
生き物がいると、何かしら不思議はあって、だから何かしら書くことはある。

生き物を育てるなどということは、とうてい自分にはできない相談だと20歳くらいのころには思っていて、そういうことができるために必要な、何かがどっか私は壊れている、と感じていて、だいたい自分を生かしておくのさえ、とほうもなく難しいと思えて、いつ死んだっていいやと思ってないと生きられないというふうなのに、生き物を育てるなんて無理です。
と思っていて、だから花瓶の花が枯れると、ああやっぱりな、と思うし、鉢植えにしても枯れると、なんかもう自分が犯罪者のような気がするし(その前に、水やりを忘れていることに気づくべきなんだが)、そうなると、枯れた鉢植えを部屋にいつまでも並べて、自虐的に楽しむよりしょうがない。(片づけが面倒なだけか)

そんなだから、妊娠したときは、ああ、とりかえしのつかないことになった、と呆然としたし、私を母親にしようなんて、こいつら正気だろうか、と胎児と胎児の父親に対して思ったし、きっと正気じゃないが、いい度胸だなと思ったけど、いい度胸だけあって、胎児は育ったし、生まれたし、日々、とりかえしつかなくなりながら、育ちつづけている。畑に行くと、毎朝きゅうりができている、というぐらい不思議だ。

しかし、私は畑をつくっているつもりなんだが、なんか全然、畑らしくない畑なんだな。よくこれで育つなあと、年寄りたちが感心してくれる。

ほんとなあ。よく育つよなあ。心底不思議だわ。

だけどさ。この親はさ、はっきり言ってろくでもないからさ、きみは自分でしっかりたくましくならないと、まずいよ。畑のカヤがお手本。刈られても刈られてもすんすん伸びていく。
車も通らない道なんだから、たった100メートル先の畑、250メートル先の公園、ひとりで行こうよ。