原爆棄民

NHKの「原爆棄民~韓国人被爆者の65年~」という番組、録画しておいたのを見た。ふるさと発スペシャルだから全国ネットではないのかも。

「65年前、広島で被爆した人の中には朝鮮半島から渡った多くの人々とその家族がいた。戦後祖国に戻った人々は、長年、日本からの支援を受けらずにきた。今も韓国に暮らす被爆者は約2600人。多くの人たちが原爆の後遺症に悩まされている。彼らはどのようにして日本に渡り、8月6日を迎えたのか。そして戦後、日本は彼らとどう向き合ってきたのか。被爆から65年、2つの国の狭間で翻ろうされ続けた人々の苦しみを見つめる。」という内容。

全羅南道ハプチョンという町には、在韓被爆者の半数以上がいる。広島にはハプチョンから来た人が多かったから。その町での取材。
昔、1984年秋と、85年夏に、私はハプチョンに行った。迷い込んだ食堂で泊めてもらった。その家のお母さんが、広島で生まれて被爆して帰国した人だった。首のケロイドを見せてもらったことを、生々しく思い出した。たぶんその頃、河村病院の亡くなった河村虎太郎先生が、在韓被爆者の渡日治療に取り組んでいたのだと思う。その前年に広島に治療に行ったと言っていた。でも、お母さんがいないと、店が大変なので、早く帰ってこいと、電話をかけた、とお父さんが言っていた。
娘のキョンジャと、ハプチョンの原爆診療所も訊ねたのだった。鄭先生は、被爆者のことを取り上げた雑誌を見せてくれた。それには住所も名前も書いてある。被爆者のことを知ってもらわなければならないが、プライバシーが守られない、というジレンマを語られた。
そんなことを思い出しながら、番組を見たのだが。

途中で、ものすごく悔しくなった。
番組のなかで、被爆者は置き去りにされたままだった。証人がいないから、被爆者手帳がもらえない。被爆を証言できる親たちはとっくに死んでいる。もう寝たきりになっていて、広島に行って親戚をさがすこともできない。何もかも遅すぎる。
知っていたはずだ。ハプチョンにたくさんの被爆者がいることは。1984年に私が知っていたんだから。日本人だって知っていたはずだ。なぜこんなに、何もできないままで、今まできてるのか。
日本の侵略統治のために、日本にきて、そのために被爆した人たちなのに、本当なら、日本人よりも先に、補償すべきなのに、何もかもあとまわしで、まにあわなくて。
被爆者手帳はあるけれど、癌になって治療費が足りなくて、満足な治療を受けられないというおばさんは、原爆症の認定を求めて、広島まで来る。そして書類を提出するけれど、認定には1年5か月かかる、といわれる。かかりすぎる。遅すぎる。
被爆者だということを、子供が独立して夫が亡くなって一人暮らしになるまで、隠していたという。差別がこわいから。

世の中に正しく絶望することは大切だ。
84年にハプチョンを訪れた頃、渡日治療もできるようになったのだし、被爆者手帳や、医療費や、そういったことも解決していくんだろうと、私は思っていた。私が知っていることはもちろんみんなが知っていて、いろんな問題にも気づいていて、だからどんどんよい方向に向かっていくだろうと、楽観していた。
人間がこんなに見捨てられたままでいる、それほど世の中が冷たいものだとは、まだ思えずにいる頃だった。
だから、自分にできることが何かあるかもしれないとも思わなかった。見てしまった、聞いてしまった、出会ってしまった、現場に行ったってことは、そういうなりゆきだったってことは、もしかしたら、何かできることがあったかもしれないのに。
毎年、通い続けるということだけでも、できればよかった。キョンジャに会いに行ければよかった。



10年後、私はなんのなりゆきか、フィリピンのゴミの山にいたんだけど、そのころには、世の中に絶望することができるようになっていたから、学校の困窮を目の当たりにしたとき、だれかが何とかしてくれるだろう、などとは思わなかった。
日本人が関わったプロジェクトの失敗が学校を苦しめていたが、支援した側は善意だから、謝ったりしない、失敗は現地のせいだと思って、支援をやめるだろう、ということも冷静に認識できた。
あのとき、私は英語もできないのに、見てしまった聞いてしまった、関わってしまったなりゆきに、踏みとどまることができたことは幸運だった。一緒に踏みとどまってくれる人たちがいてくれたことも幸福だった。
世の中に、正しく絶望することは、大切だ。



ハプチョンの、記憶のなかの路地を、画面から見つけることはできない。カメラをもっていなかったから、写真も残っていない。
キョンジャのお母さんの名前を、私はもう思い出せない。どこかに古いノートが残っていれば、あるいは書きとめているかもしれないけど。見せてもらった首のケロイドのことを思い出したとき、胸がやけるような感じがした。
何かが、すごく悔しい。

  伝えんとすればおのれを恥じるごとほてりはじめる跡なきケロイド
                      (『路程記』)

ハプチョンの被爆者の体験の聞き書きを、できればいいなと、ぼんやり思ったことを思い出した。
あのころ、私はいつになっても卒業単位の揃わない学生で、人間関係に脅えながら、バイト暮らしに心身すりきれそうになりながら暮らしていたが、あんな暮らしのばかばかしさを我慢してないで、どこかで断ち切って、キョンジャに会いにいけばよかったんだ。そうしてキョンジャのお母さんの被爆体験をしっかり聞かせてもらえばよかった。今度行ったらそうしよう、と思いつつ、行けないまま、ああ、おそろしく歳月は過ぎた。

いつか。
もうすこし子どもが大きくなったら一緒にゆこう。ハプチョンの郊外には、日帝時代のソウルを模したテーマパークができているらしい。休日には大勢の人々が訪れるらしい。その人たちはその町の被爆者のことを知らないという。
見つからないかもしれないけど、探してみようか。昔、裏庭に迷い込んだ私を泊めてくれて、ごはんを食べさせてくれた、あの食堂。