短歌のお葬式

金のない人間が、小銭を手に入れると何をするか。
兄は賭け事してなくしてしまう。
弟はなんだかわからぬままになくしてしまう。
ということを骨身にしみてよくわかっている父は、自分の葬式の費用を、赤の他人であるところの古くからの知り合いで近所に住んでたくーやんに預けていたのである。私も大好きだった兄やんに。
が、父よりずっと若いくーやんのほうが先に死んでしまった。
それで、くーやんのほかに信じられる人間もまわりにいないので、かわいそうに父は、自分の葬式の費用を娘の私に預けることにしたのである。「わしが死んだら、これで葬式出せ」と言った。もちろんこのことは、兄にも弟にも内緒である。
金のない私が、内緒の小銭を手に入れた。

でも、父さんまだ死なないな、と思った。
じゃあ、父の葬式の前に、自分の短歌の葬式を出そう、と思いついた。

悪魔である。

使い込む葬式代、5年で返せるつもり、それまで死なない、という願掛けもかねて、これはいい考えだ、と思った。
もちろん父には内緒である。

それで歌集できます。そろそろできる。
ところが、もう印刷にはいるという頃になって、いい考えだ、と思ったのがほんとうにいい考えだったかどうか、わかんなくなってきた。

というのは、パアララン・パンタオ(フィリピンのゴミ山の学校)にクリスマスの送金したら、残高とか、なんかすごく心細くなってきて、給食、つづけられるかどうか、厳しいな、と思って。
だいたい今年、子どもたちの給食の費用の目途がたっていないのに(結果的にはこれまでなんとかやってこれたにしても)、来年からもまったく心細い状況なのに、同じ使い込みするなら、こっちに使い込むべきなんじゃないだろうか。

いったい、つまんない歌集出してる場合か、とか、人の道としてどうよ、とか、なんかぐちゃぐちゃと葛藤してきて、ひそかにくるしかったのですが。

でも現金なもので、それからしばらくして、なんとか今年度は給食もつづけられそうな見込みができてきたら(ああっ、スポンサーのみなさんありがとうございます)、すこし落ち着いて、すこし自分をゆるしてやってもいいような気がしてきた。
来年度の給食代の目途はまったくたっていないんだけど。
なんにしても、もう手遅れなのだ。

そんなわけで、歌集つくりました。
部数は少ないですが、タイトルは長いです。

野樹かずみ第二歌集 
『もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう』
洪水企画・本体1800円

そろそろできてきます。詳細またお知らせします。
買ってもらった分の代金は、パアラランへの寄付と父の葬式代の返済に半分ずつあてる予定。場合によっては父にはさらに長生きしてもらうことにして、パアラランに全額まわすことになるかも。とにかくよろしくです。