目にとまった記事。
長生炭鉱水没事故と遺族のクンジョル
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慰霊碑できてよかったなあ。
それでいきなり、遠い記憶の底から、ふっと浮かび上がってきた詩のフレーズ、
そんな父は
毎年
冬になると海に沈みます
テレビを見て甘納豆を食べているような父親が、軍艦だったかちがったか、何かの破片を探しに、毎年、冬になると海に沈む、
という内容だったか違ったか、記憶はたしかじゃないんだけど、
学生のころの友人が書いた詩のなかに、そんな景色があった。
ほんとうに、毎年冬になると、海に沈む人たちがいたんだなあ、と思った。海に沈んだ人たちに、心を寄せる人たちがいた。
その孤独、が尊いものに思える。その孤独ゆえの、つながりもまた。
☆
記憶の海に、もうすっかり水没していた歌稿が、紛失したと思っていたひと束が、しばらく前に出て来た。
20年前の。読み返す勇気がないので、本棚につっこんで放っていたんだが、ふと見ると、何枚か文字が消えかかっている。
感熱紙。
20年前、ワープロというものを使っていました、そういえば。
いままで文字が残っていたほうが不思議だが。
いっそ、消えてしまってくれていれば、忘れられてせいせいするのに、消え残っていた文字。
消える前に見つかったのも何かの運命かしら、と思って、パソコンに打ち込み直した。
読み返して、恥ずかしさに身悶えするが、思い出したくないことも思い出すが、
生きていれば、恥ずかしい。しょうがない。
それでも歳月はありがたいので、20年もたてば、その恥ずかしさもすこしは他人事だ。
でも、どうしよう、これ。
☆
自国の、恥ずかしい歴史から目を背けたい心情は、私が、20年前の原稿を直視できなかったことと、似ているかもしれないんだけど、
たとえば、強制連行から何年たったのか。
すこしは他人事のように、
それら歴史の事実に、向き合ってもいいころだ。
記憶が消えてしまう前に。