コスモス

ほったらかしの畑のコスモスが花盛り。

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ようやく涼しくなったので、草ひき。こないだなんとかニンニクだけは植えたのが、少し芽が出てきた。いちごは、雑草のすきまにかろうじて、生きのびたものは生きのびている。半分くらいは滅んだ。来週末の大掃除までに、周囲の草も抜いておかなければ、と思って、すこしがんばったら、たちまち腰痛、翌日はなんにもできず。

2日ほど、連続して、90歳前後のお婆さんたちから被爆の話を聞く機会があったのだが、被爆の話は話として、感じいったのは、戦前戦中に女学生であったお婆さんたちの聡明さ、教養というものの底力であった。
戦前も戦後も、丁寧に、暮らしを紡いできたのだろうということが、伝わってきた。経済的に恵まれてもいたのだった。
90歳の聡明さを前に、人生はいいなと思った。女の人が、老いてみじめではない、という姿を見るのは、なんかそれだけで幸福感がある。

住宅顕信。すみたくけんしん。なつかしい名前を聞く。夭折の俳人。たぶん、亡くなった頃に、話題になって、それで俳句を読んだと思うのだ。一度見たら忘れない。「ずぶぬれて犬ころ」とか「若さとはこんな淋しい春なのか」とか。
その住宅顕信を描いた映画、本田孝義監督作品「ずぶぬれて犬ころ」見てきた。
顕信の句が、現代の中学生、いじめられている男の子に届くという話は、よかった。ただ、映画の構成上、しょうがないのかもだが、教頭は、その生徒に、句集渡すより先に、いじめを解決しろよと、それがひっかかってしょうがないのが、なんというか。

「ずぶぬれて犬ころ」の句は、「ずぶぬれて犬ころ」になったときに、かたわらにもう一匹の犬ころがいてくれると思えて、好き。