「正しい歴史」

「男の歴史は権力闘争史。女の歴史は生活史。」

昔、被爆二世の男の人がそう言ったのを、とても印象的に覚えている。
あれは私たちが、在日韓国人女性被爆者の被爆体験の聞き書きをはじめたころに、アドバイスを求めてお話を聞いたんだったと思う。その人の亡くなったお母さんは、反核運動の草分けのような人だったらしい。
女性被爆者の体験が大事だよ、と励ましてもらったんだったと思う。

朝鮮人であることに加えて、被爆者であること、女であること、二重三重の差別のなかで、生き抜いた人たちの声は、あれはずいぶん尊いものではなかったか。あれから四半世紀も過ぎて、語ってくれた人たちはおおかた亡くなっているのに、今も、何かの拍子に、空耳で聞こえる。

「あんたらに話したくない。話してもどうせわからん」と必ず言われた。
それでも何度も通ううちに、ある日、堰を切ったように話し出してくれる。
原爆で焼かれたこと、差別されたこと、飢えたこと。
ひとつひとつ思い出したら、いまでも泣く。
話し終えて、お母さんたちは言った。「正しい歴史を残してちょうだい」。
うちらは字が書けんから。

学校に行ったことがない。読み書きができない。異国で、蔑まれていることもわかるから、いちいち人に何かを話そうとも思わない。貧しくてひもじくて、子どもにまともなものも食べさせてやれない、着せてやれない、それでも育てるために、朝から晩まで土方して働いた。
そのような人たちが「正しい歴史」と言う。どこに、正しい歴史があるかを確信している。

仕事がないし、馬鹿にされるし、男たちは飲んで博打して、ろくでもなかった、そんなことも、本当のことだから書いてかまわない。

ああ、騙されて遊郭に売られてきたのだと、話してくれたお婆さんもいた。

原爆を生きのびたのに、いじめられて差別されて、息子は将来を悲観して自殺した。「悔しさは言えん」と言った。しずかな、穏やかな声の、石のような重さの。

「正しい歴史を残してちょうだい」と言った。正しい歴史が、どこにあるかを、私はあのお母さんたちから教わった。

お母さん、と呼んでいた。どうしてそう呼びはじめたかわからないけど、というのは嘘かもしれない、そういうふうに呼びかけたら、うちとけて話してくれるかもしれない、という精一杯の打算だったかもしれない、とにかくそう呼んでいた。

すると言葉はおそろしい、あんたはどんなふうに生活しているのか、お母さんは死んだのか、食べるものはあるか、着るものは困ってないか、親みたいに気にかけてくれて、これでジュースでも買いんさいって、お小遣いもらったこともあった。ずいぶんやさしくしてもらったのだ。

女の歴史は生活史。だから大事なんだというのは本当だ。権力闘争は対立するが、生活史を知ることは共感を生む。

ただ、人としての素朴な共感だけが、国境や民族の違いやあれこれの対立を乗り越えてゆくと思う。そしてそこには何か深い喜びがある。

人としての素朴な共感が消えたら、あとは差別と暴力に蹂躙されてゆくばっかりだ。

素朴な共感がどこから生まれてくるかも、お母さんたちから教わった。

ひとりになって、現場に行くこと。
全部の肩書きを捨てて、なんにももたない、心細いひとりになって、現場にいくこと。

喜びの生まれるところにたどりつこうと思ったら。