星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

考えていたこと。4、もうひとつの地球

考えていたこと。

4、もうひとつの地球

 フィリピンの戦争被害者が、家族が日本軍に虐殺される様子を、語ったビデオを見たことがある。山に隠れて、少年は見ていたのだった。村人たちが皆殺しにされる凄惨な殺戮について証言したあと、彼が言った言葉が、衝撃だった。なぜあんなひどいことができるのかわからない。だが、立場が逆だったら、ぼくも同じことをしたかもしれない。

 ドストエフスキーの晩年の短編に「おかしな男の夢」という話がある。  
 自殺しようと思った男が夢のなかで、もうひとつの地球に行く。そこの人々は争いを知らない。戦争というものが何なのかも、まるで理解できない、というふう。人々には嫉妬も貪欲もない。とても美しい心の人たちが住むところで、そこを訪れた男は、感動して、目覚めたあと自殺することをやめる。
 ところが、男が訪れたために、もうひとつの地球では、人々の心が汚れて争いが起こるようになってしまった。

 読んだのは20歳のころだけど、もうひとつの地球は、本当にあるんだろうなと、思った。たぶんキリスト教なら楽園と言うし、仏教なら仏国土と言う。古来「おかしな男」はたくさんいて、そういうヴィジョンは、普遍的なのではないか。
 私たちは楽園を追放され、仏国土ではなく穢土にいる。

 だが、たったひとりの「この地球」の男が訪れたばっかりに、「もうひとつの地球」はまるごと汚染されてしまう。
 とはいえ、男が何かをしたわけではない。ただ「もうひとつの地球」を訪れただけだ。死にたいばかり、つらいばかりの男が。
 でも男は、その存在で、無垢な人々を傷つけた。傷つけられた人々は、もう無垢ではないのだ。「この地球」の人に触れられてしまったら。
 被爆証言で「私は鬼じゃったんですよ」と言った沼田先生の声が重なる。

 その苦い認識。

 被害者だ、と言う。立場が違えば、加害者になる。たぶん、暴力に関係のある私たちだから「この地球」にいる。私たちが「もうひとつの地球」に行けば、そこが「この地球」になる。だって「この」私たちだから。

 たまさか見かけたトルストイの言葉。
「それは、あらゆる存在が他人の幸福のために生き、おのれ自身よりも他の存在を愛するような状態だ。そういう場合にのみ、お前も他のすべての存在も、みなに愛されるようになるし、お前もその一人として、望みどおりの幸福をさずかることができるだろう。」(人生論)

 きっと、「もうひとつの地球」にはそういう人たちが住んでいるのだろう。そんな無茶な、と思うようなことなんですけども。
 地球から、もうひとつの地球までの、内なる長い旅を、私たちは歩み通せるだろうか。

                       考えていたこと、終わり。