葬儀の日

昨日、おばさんの葬儀。

長女の家族3人、次女の家族3人、息子の家族3人。と私たち3人。朝からずっと一緒にいて、なぜか最後に、おばさんの家まで遺骨を抱いて戻ったのは私だった。
11年前、私が広島にもどってから、しばしば遊びに行ったり、一緒に旅行したり、した。
私は親不孝だけど、かずみちゃんたちによくしてもらってって長女が言う。でも親不孝なのは私も。自分の親にはそう。たぶん子どもは親不孝なものだと思う。他人だからできることもあるというだけのことだよ。
私たちは、おばさんと一緒に過ごす時間は、いつも楽しかった。
最後まで、うちの車に乗ってくれて、うれしいことでした。

「あの頃がよかったね」って、隣同士に住んで、まだ私の母が生きてた頃のことを長女が言う。自分の家がどんなに貧乏か、あの頃、小さくてわかんなかったけど、って。……私はすこしわかってた。いつもうちの母と一緒にいて、何でも話していたから。

あの頃がよかったって、おばさんも言っていた。あの頃が、そんなにしあわせだったわけでもないと思うんだけれど、あれから私の母が死んで、住んでいた家も壊されることになって、子どもたちもいなくなり、貧しかった路地のみんなが離ればなれになっていったあとの、孤独を考えたら、あの頃がよかったって、いう気持ちもわかる。

郷里からやってきた息子一家が、自分の母も、かずみちゃんのお母さんも、だれそれさんも、だれされさんも、みんな子どもで苦労した、って昔話する。いちばん苦労かけたのは、他ならないあなただと思うが、あんまり思い出したくないが、思い出してみれば、あのころ、母親たちにしてみれば、発狂しそうな出来事が、次から次へとあったんだ。

子どもだった私が、あれこれのことを、おぼろながら記憶しているのは、あの頃、私の家は、いつも、なんだか人が吹きだまっていたからだった。家に鍵をかけるということはなくて、表からも裏からもいつも人が出入りしていて、だから毎日ごはんをたくさん炊いていた。兄やその同世代のお兄さんたちが、腹をすかせてやってくるとか、やっかいなもめごともってくるとか、裏の家の夫婦げんかから逃げてきた子どもたちがやってくるとか。

……あの路地の記憶が消えてゆく。記憶を共有する人が消えてゆく。同じ場所にいても、誰もが、同じように記憶するわけじゃない。私の記憶の仕方と、おばさんの娘たちの記憶の仕方は違う。そうして私の母を深く記憶してくれている人が、ひとりふたりといなくなる。Cimg1241 

火葬場の紅葉がきれいだった。子どもは、もう骨を見るのはいやだ、というので、子どもとパパは外で待っていた。すべて終わって、おばさんのアパートで、形見分けやら、家財道具の処分のことやらあるので、あれこれ引っぱり出していたら、写真出て来た。私の子どもが生まれて間もないころの。おじちゃんが撮ったんだな。いま特養にいるおじちゃんにはまだ、おばちゃんが死んだことを言っていない。娘たち、こわくて言えないって言う。
すこし胸が痛い。前にお見舞いに行ったとき、おじちゃん、こわれて使えないケータイを大事に握っていたよ。

昭和40年代の、地域の集まりの写真のなかに、若いころの父と母がいる。弟にそっくりだと思ったら、それが父で、かわいらしい女の子だなあと思ったら、それが母だった。
写真数枚と私の子どもが、遊びに行く度にそれで遊んでいた電子辞書などもらって帰る。

アパートは、いつものようにきれいにきちんと片付いていた。15、6年前になるのかな、先に広島に出てきていた娘たちに呼んでもらって、広島に来てから、ずっとここに住んでいた。

おばさん、若い頃から体が弱かった。とても長い闘病生活だった。病名は癌もふくめてよくわからないほどたくさんあって、何から何まで悪かったのだが、医者は、余命宣告はしない、この人にはあたらないから、と言っていたらしい。こんな数値で生きている人を見たことない、というほどだったし、今度こそ寝たきり、と覚悟しても、しばらくして行くと起き上がって歩いていた。会うと、なんにもおそれなくていいんだ、という気持ちにさせられた。
あっぱれだったなあ、と思う。

とてもあっぱれで、とてもあっけない。

向こうでは楽しいさ。うちの母さんと、くー兄と、おばちゃんといっしょに、あの頃の仲良しが30年ぶりに揃って、きっと大喜びでおしゃべりしてるよ。向こうでは、善く生きた人たちが楽しくやってて、地上には私たちみたいなカスがまだ残されてるってことだわ。お父さん、まあがんばって、お互い、もうすこしましな人間になってから死ねるように、努力しましょう。

と、夜、父に電話した。