デクノボーが死んだ

「くーが死んだ」
七日の昼に父からかかってきた電話の、たった五音。
くーちゃん、くーやんと呼ばれていた。くーにい、と私は呼んでいた。8歳か9歳のころから。くーにい、と書いたら泣く。くーやん、と書こうか。

8日、親しかったおばさん(Fおばさん80歳、癌)を連れて、おばさんの車椅子も車に詰め込んで、フェリーで、松山へ。おばさん、体調とてもいい。癌が骨に転移して足の付け根の骨がなくなっている、にもかかわらず歩いているという奇跡のような人なので、心配だったのだが、杖を忘れるほど調子よく、私の傘を杖がわりに歩いて、荷物を運ぶのに使う以外は車椅子も使わずにすんだ。

松山の港につくと「ああ、四国だ」とおばさんが小さく叫んだ。横浜生まれの人だから、昔(半世紀前だ)、再婚して宇和島に行くときには、親は、そんな電気が通っているかもわからないところへと、ほんとに心配したらしい。「宇和島時代が一番なつかしいわ。あんたのお母さんがいて、くーちゃんがいたから」。

港からは新しい道ができていて、さらに途中までは高速道路ですいすい行けてしまう。昔3時間かかった道がたった1時間半。くねくねした山道を走らなくてもいい。(峠の茶屋とか谷底のタコ焼き屋はどうなっただろう)夕方には宇和島に着く。食事して、通夜へ。

父は、冬に入院したときに、自分の葬儀は、くーやんにまかせるつもりで何から何までたのんでいた。そのことは聞いていた。
もし私の家族に何かあっても、くーにいがいてくれる。葬儀で帰省するときは、傍らに必ず、くーにいがいてくれて、それで、息抜きしたくなると、一緒にお茶を飲みに行こうと、誘ってくれるはずだった。

そのくーにいが、死んでいる。そのことが、どうしても理解できない。

Fおばさんは昔、腎臓摘出の手術をしたとき、入院の準備を、お金もなくてなんにもできないでいるのを、スリッパや洗面用具や要るもの全部用意してくれたのが、くーやんと、まだ生きていたあんたのお婆ちゃんだった、不安ななかずっとつきそってもらって、どんなに心強かったか。その話を繰り返し繰り返ししていた。

斎場で、2年ぶりに父に会う。「生きとる間にはもう会えんかもしれんと思っとった」などと言う。ああ、その言葉は昔、10年ぶりに祖母に会ったときに言われた言葉だ。死ぬ前年だったか。でも父さん、前に会ったときよりずっと元気そうだ。

Fおばさんは、会う人会う人みな古い知り合いで、同窓会の様相だ。私が子どもだったころに、私の母や隣人だったFおばさんと親しかったおばさんたちが、あのころとても元気ですこしこわくもあったKおばさんやMおばさんたちが、びっくりするほど小さなお婆さんたちになっていて、胸をつかれた。私が子どもを産んだことはみんな知っているが、見るのははじめてだったり、久しぶりだったりするので、「ああ、おかあさんが生きていたらねえ」と何度も言われた。

見知らぬ女の人に声をかけられた。会ったことがあるはずだけれど、だれか思い出せない同世代ぐらいの女の人が、子どものころ、私の母に声をかけてもらって励ましてもらったのが、とてもうれしかったわ、と言う。母は28年前に死んでいるのに。

ほんとうに、蟻の穴のようなふるさと。
生涯2度と会いたくなかった人にも会う。だれに会いたくなかったのかを忘れるほど、老いていて。いまさらどこにも向けようのない感情が、あわく宙に浮く。
身近なひとたちのあいだの、愛憎や、信不信が、わすれていたあれこれが、ふっと浮かびあがる。

忘れていた小学校の同級生の名前まで思い出した。斎場のスタッフで働いていて、顔が、かわっていないんだもの。

くーやんの奥さんと息子たち。生まれたときから知っている、小さいときは帰省すると、朝、まだ寝ているときから、ねーちゃん遊ぼうとやってきた男の子たちが、もう二十歳前後になっていて、ひとりは大阪で働いていて、ちょうど連休で帰省しているさなかの出来事だった。何年ぶりだったのに、声をかけたら、子どものころのような素直さで、なにか救われるような思いがした。



それにしても、なんとなつかしく慕わしいひとを、私たちは失ったことだろう。
通夜も告別式も、すすり泣きの声があちこちでしていたし、私も泣きっぱなしだった。
児童民生委員だったから、それも同和という難しい地域の委員だったから、県知事からの弔電とか、市長が来ていたり、福祉課の人の弔辞とか、あったんだけれども、献身とか、奉仕とか、弱い立場の人たちのために、誠心誠意尽くしてきたという言葉が、死者への美辞麗句でなく、というか、そのような美辞麗句が、うつろではない。
たしかにそのような人であった、献身とか奉仕とか、そのような言葉を、むなしくしない生き方をしていた人であったと、なんでいまごろ気づくのだろう。

親しみやすく、どんな話でも聞いてくれて、何か頼んでも決していやな顔をすることなく、できることは引き受けてくれて、必要があればどこへでも連れて行ってくれて、一緒に悩んでくれて、ここまでと思うほど親身だった。入院する人の世話だとか(くーやんは倒れる前日にも、癌で入院しているIおばさんを見舞っていた、という)、亡くなる人の世話だとか(しばらく前にも、ひとり暮らしのお婆さんの葬式を出したばかりだった)、私の父だけでなく、年寄りたちは、みんなひそかに、自分の葬儀はこの人にまかせようと思っていたのではないか。そうしてわたしたちは甘えていたのだ。

雨ニモマケズ」のフレーズが、頭のなかを流れていった。
ヒガシニビヨウキノコドモアレバ イツテカンビヨウシテヤリ
ニシニツカレタハハアレバ イツテソノイネノタバヲオイ
ミナミニシニサウナヒトアレバ イツテコハガラナクテモイイトイヒ
キタニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
……

たしかにそのひとはそのようにいきていて、そのひとがいてくれることで、それぞれが抱えている地獄が、いくらかやわらぎ、いくらかは楽しいことにもなった。

他者のために奉仕するということ、私心なく、裏表なく、思慮ふかく、無名で、でも、その人を知っている人なら、きっといつまでも慕わしく思うだろう。ほんとうに、弱い人たちに好かれていた。誰でもの奴隷のように、尽くしていた。同苦すること、共生共死の生き方のできる人だった。あんな無惨な人間たちのなかで。

私の母が死ぬときに、ずっとつきそってくれていたのも、この人だった。おまえの母さんが、そのように生きていたのだと、教えてくれたのもこの人だった。

こんな身近にデクノボーがいてくれたことに、いなくなってから気がつく、私はなんて愚かだ。

蟻の穴のようなふるさと、蟻のように黒い喪服を着た、なつかしい、みじめで尊い人たち。

くーにいは、とても疲れて眠っているように見えた。それから、すこし微笑んでいるようにも見えた。
小さい頃から大好きな、その笑顔を見ると安心した、すこしはにかんだような微笑。

それからもう涙で見えなかった。

「大丈夫だから、心配するな」と、小さい頃から(ほんの4か月前まで)どれだけ言ってもらってきたか、わからない。その声が、もう聞けない。

デクノボーが死んだ。享年63歳。