路地

商店街も駅のあたりも、ゆうがた、はやばやと店閉めてしまうなかで、わりと遅くまで、開いている喫茶店があって、通夜のあと、お茶のみにゆく。くーやんも私の兄もそうだが、喫茶店の大好きな人たちで、私も子どものころから、いろんなところに連れてってもらった。Fおばさんにしてみれば、あらゆる道あらゆる店あらゆる景色が、「くーちゃんに連れていってもらったところ」なのだが、その店もそのような一軒で、コーヒーおいしかった。
店には水槽があって、カラフルな小さい魚たちいっぱい泳いでいるのを、ちびさん夢中で見ていた。店のおばさんが、一匹死にかけていると教えてくれる。弱った一匹を、みんながつっつきまわして、尻尾もエラもちぎれて、肉まで出てきている、色も変わっている、もう長くないだろう。そんな話をしながら、注文していないけれど、バナナまで出してくれた。

土曜はきれいな五月晴れ。告別式には兄も来ていた。父が兄に知らせていないようなので、心配していたのだが、その日の朝、知人が知らせてくれたらしい。兄は、片っ端からホテルに電話をかけて、私たちの泊っているところをつきとめて連絡してきてくれた。なぜ教えてくれないのかと、父に文句を言いに行ったらしいが、文句も言えてよかった。ちびさん、人みしりもせず、なかなか難しい関係の父と兄との間を、なごませてくれる。
焼き場も行き、骨も拾わせてもらう。自分が何をしているのか、なんていうのか時間そのものが夢であるかのようだ。「夢のなかみたいで実感がない」とくーやんの奥さんが言った。

Fおばさん、杖なしで歩けるほど調子がいい。癌で入院中のIおばさんを見舞いに行って、それから、夜は昔なじみのMおばさんやKおばさんと、Mおばさんの息子の店に行くことになったというので、ホテル近くで別れた。

70代も終わり頃の、背中もまるまったり、痩せて小さくなったお婆さんたちの集まっている様子をみたとき、ああ、オバたちは、兄やんを失ったのだ、と、中上健次の小説世界が目の前にあると思った。

「誰をも彼をも、救けたい」 (中上健次「岬」)
そんな声を、てれ屋だから気づかれないようにしながら、存在のどこかに、深く響かせていた兄やんだった。あんなにたくさんの苦労をしてきたオバたちが、本当にやさしいのが誰かわからないはずがなく、追悼の同窓会。

夜十時になってもホテルに帰ってこない。「あの不良娘はどこに行ったんだ」とパパが言うのがおかしい。でもまあ80歳や78歳たちが、焼き鳥屋で際限のないおしゃべりをしているかと思うと、それはそれで、今生人界の思い出ではある。今度いつ会えるか、会えないか。

具合悪くなったら、病院へ連れてってくれるでしょう、もう寝ようとしたころに、Fおばさん帰ってきて、またひとしきり、あれこれの話を聞かせてくれる。

くーにいの若いころの恋愛話ははじめて知った。

「くーちゃんは、若いころ、好きだった人がいたのよ。相思相愛で結婚したかったんだけれど、相手の家族が、くーちゃんが部落だからというので、大反対して、兄弟や親戚の結婚にも差し障ると言われて、できなかったのよ。女の人は、あんまりつらかったんでしょう、親もと離れて九州に行ったわ」

その女の人を見たことがある気がする。くーにいは、いろんな人をうちにつれてきて、たいてい男だったけど、何人か女の人もいて、母が死ぬ前、最後のころに、来ていたひとが、奥さんになったけど、そのずっと前に、私が小学生だったころにも来ていた人がいた。

70年代半ば頃か。小学校で同和教育がはじまっていて、校区内にいくつも同和地区を抱えているからには切実な問題で、その切実さはなんとなく感じていたけれど、でもそれが、そんなに身近に、わが家の居候の、大好きな兄やんの身の上に関わることとは、まるで気づかないでいた。



母が死んで、数年後、家を立ち退きさせられて、それからさらに数年後、くーやんのそばがいいから(それから家賃が安いから)、父は部落のなかに引っ越していった。

父が引っ越す前、私が高校を卒業するまで暮らしていた路地に行ってみた。もう何もかも変わっていて、昔、舗装もされていなくて、馬が木材をひいて通っていったとか、店もなくて、行商のおばさんがリヤカーをひいていたとか、もう本当に遠い記憶だ。私たちが暮らしていた、みすぼらしい木造の長屋など、とっくになくて、埋め立てられた田んぼにも、新しいきれいな家々が立ち並んでいて、もうすっかり別の町だ。
路地の奥に、昔ひとり暮らしのお婆さんが住んでいて、母が気にかけて毎日のぞいていた、そのお婆さんの家が残っているようだったけれど、あのお婆さんが生きているはずもなく、引き返した。

昔、木のぼりをした木が、一本だけ、残っていた。

それから山をこえて海まで行ったら、ちびさん、波がコンクリートの階段に打ち寄せるのが面白くて動かない。ずーっと見ている。船が通ると波がゆれるとか、夕焼けで、水面がきらきらするのを、もうほんとうにずーっと見ていて、やっと立ち上がったかと思うと、▲したいという。

あわてたあわてた。来た道を引き返して、ようやく商店のトイレを借りたら、そのころには▲ひっこんだらしい。そんなこんなのところに、昼に告別式で会った叔父が、自転車に釣り道具をくくりつけて走ってくる。「釣り?」と訊いたら、「そうよ」と言う。昔から、一升瓶があって、釣りができればしあわせな叔父である。結婚はしなかったが、阪神大震災で焼け出されてこちらに帰ってきたひとと、老いらくの恋をして、そのひとの死をみとったのだと、噂を聞いた。
今度ゆっくり、釣りにつきあわせてもらおう。