日輪の翼

昨日の朝、父のところに寄る。
「このあたりは全然かわらないわねえ」とFおばさん。
ほんとに。

くーやんのところに行く。奥さんがいて、仏壇の前で、亡くなるときのこととか、ずっと聞かせてくれた。そんなふうに穏やかに、まわりを煩わせることもなく逝ったのなら、それはそれでよかったのかもしれない。

ただ、私たちがさびしいだけだ。

玄関には、ほんの5日前まで、くーやんが乗っていた車があった。軒には今年も燕が巣をつくっていた。

近くのくーやんの親戚のところに挨拶にゆく。阪神大震災のあと神戸から帰ってきた人だと聞いた。通夜のときに、くーやんがいなくなったから、お父さんになにかあったら、私たちが連絡させてもらうから、と言ってもらったのが、ほんとにうれしかった。

表通りから奥まった路地で、部落の人に用事があるのでなければ、車なんて通らない道だが、そこを車が通る度、何か玄関でもの音がする度、「くーやろか」と思ってしまう、と父が言い、「ここにいると、くーちゃんを待ってしまう気持ちになってつらいわ」とFおばさんが言う。
兄も来たので、くーやんの行きつけの喫茶店でお茶飲んで、そこで父と兄と別れた。

高速を通って、しまなみ街道を渡って帰る。しまなみ街道を渡るというので「まあ、生きているうちに渡れるのねえ」と大喜びだったFおばさんが、それが四国と本州をすっかりつないでいるのだと知らずに、どこから船に乗るのかというので笑った。

高速をずっと走りながら、しきりに中上健次の「日輪の翼」のことを思い出した。ずっと、オバたちにとって、兄やんの車は、翼だった。くーやんは、ほんとうにどこへでも行ってくれたのだ。香川へも高知へも、九州へも大阪へも東京へも、墓参りだとか、親戚や友だちを訪ねるとか、病人の見舞いだとか、斎場にも、駅にも港にも、役所にも、あれこれの施設にも、温泉にも。ひとりではなんでも心細いオバたちに、なんて丁寧に寄り添ってくれたことだろう。
私が広島にもどって結婚したときは、父を広島まで連れてきてくれた。また車の運転のほんとうに上手な人だった。この人の運転に慣らされたので、私は自分は運転しないが、車の運転の乱暴な男はきらい。

「日輪の翼」は路地がなくなってしまったあと、兄やんがオバたちを、大型トレーラーに乗せて、東京まで連れていく話だった。皇居の前で、オバたちはいなくなった。兄やんはどこへ行ったろう。もうずっと以前に読んだので、細部を思い出せないが、死んでしまった私たちの兄やんは、もうオバたちを乗せない。

オバたちもいなくなるのだ、と気づいてまたふと胸をつかれる。そんなに遠くない、ほんの数年ぐらいかもしれない、みんな次々といなくなるだろう。きっと、もうオバたちを乗せなくていいから兄やんも一足先に逝ってしまったのか。

終わりのはじまり。消えたのは、消えてゆこうとしているのは、あの土地にあった、私自身のなつかしい路地だ。人と人のつながりの、あたたかかったり残酷だったりする噂話の、けれども、どんなに行き詰って逃げ込んでも、身内であってもなくても、誰かかくまってくれる、そのような路地の、人のつながりの。

春になったら帰るよと私は言って、なのにいつになっても帰ってこないから、自分が死んで、呼び戻してくれたのだろうか。むろんそうではないだろうが、結果としてはそうだった。兄やんが死ななかったら、またしばらく帰れないままだったかもしれない。
私たちの家族がぎくしゃくしたまま、もう何年も過ぎていたのを、すこしすべらかにした。ちびさんは、葬儀のときは嘘みたいにいい子だったし、無邪気でほがらかで、父や兄を幸福にした。

しかし人の心はそんなに簡単ではないので、ぎくしゃくしたままねじきれたときの残骸の拾い方を、私は考えておこう。
弟はもう父にも兄にも連絡してこない。居所は兄が知っているらしいが。また何年かしてふらりと帰ったときに、くーやんが死んだと聞いて「うそやろ!」と叫ぶ姿が目に浮かぶようだ。

パパは、ずっと運転してくれた。よく知らない町を、あっちだこっちだと言われるままに。くーにいにそうしてもらってきたから、パパにそうしてもらうことも当然だと思っているなあ、そういえば。

当然ではないことなのだろう。でも当然であってほしいことでもある。
兄やんたちが、オバたちを大事にしてくれる、ということ。

くーやんみたいな人がいてくれたら、この世の地獄は、すこしは耐えやすい。この「すこし」が、ほんとにどれほどかけがえなく、得難いだろう。

いない、と思いだす度に、泣きそうになるなあ。