一億人の昭和史

先月9日に、子どものころ隣に住んでいた親しかったおばさんが亡くなって、その一週間後には、住んでいたアパートも片付けられた。形見分けののち業者が全部ひきとっていくという、その最後にアパートに寄ったら、もう家具も分解してあったり運び出されたりしていたけど、いろいろがらくたはのこっていた。なんでももって帰って、と喪主の次女さんが言う。

「こんなきれいな絵は見たことない、この絵がほしい」と子どもがまず見つけたのは、壁に飾ってあった絵で、その絵のことは覚えている。長女さんが中学生のとき、安い複製画を買ってきたのを、何十年も飾りつづけているのだった。コローの風景画のような風景画。緑の森と泉の。
この絵を見ると、昔隣同士に住んでいたころの、おばさんの家の様子がありありと蘇ってくるんだけれど、ああ、それがうちに来るのか。念のため、長女に電話してきいてみると、もういらないというので、もらって帰る。

「ぼく、この本もほしい」と次に子どもが見つけたのは、毎日新聞社刊「一億人の昭和史」。おじさんが古本屋で見つけた本だな。明治上中下と大正、の4冊。うちにも何冊かあるが、だぶらない。子どもさっそくその場にすわりこんで読みはじめた。昔の飛行機や車や汽車の写真もたくさんあるし。

まだおじさんが動けたころ、自転車に乗って、古本屋に行くのは楽しみのひとつだったのだ。どこの古本屋のどのあたりの棚にあったかまで想像つくけれども(いまはその古本屋ももうないが)歴史小説の類、日本史探訪、それから、永井荷風作品集。おじさん、永井荷風が好きで、古本屋で永井荷風を見つけて、うれしかったと話してくれたのを覚えている。
それらの本もひきとって帰る。

ことのなりゆきで、おじさんのアルバムをいま私が預かっている。以前に一度見せてもらったことがある。戦争中予科練にいたころの写真とか。
軍国主義教育をした教師たちをゆるさなかった。その教師たちがいる間は、同窓会にも決して行かなかった。教師が死んでから、同窓会を楽しみにするようになって、宴会の写真が多くなった。

戦後、神戸で警官をしていたというのは話でしか知らないが、そのころの写真もある。警官時代に見聞した、えらく卑猥な話をしてくれたことが一度ある。ちょうどおばさんが留守していなかったときで、いったいそういう話をおばさんや娘たちにしたことあるの、って聞いたら、できるわけない、って笑っていた。あのときはすこぶる上機嫌だった。
その警官時代におじさんは、戦時中に朝鮮で警官をしていた上司から、朝鮮ではトラックに娘たちをつめこむのが仕事だったと聞いた。慰安婦にするためだ。家々から娘をさらっていくのだが、仕事だったから、罪の意識などなかったそうだ。……と私は聞いた。

アルバムには、私の知らない親族たちの古い写真がある。身内のだれかだろう、青年の写真の下に「満州で戦死」とある。
昭和のはじめころの北京の写真もある。説明によると、空襲のときに、バスガイドさんたちの避難場所として、自宅を提供したことがあって、そのときに親しくなったお姉さんからもらった写真らしい。そのお姉さんは、以前、中国で働いていたらしい。なんの建物かわからないけれど、中国式の屋根に日射しがゆれている。

いつだったか、7月7日に訪ねたときに、今日はなんの日か、とおじさんは言った。七夕、しか私は思いつかないが、「盧溝橋事件の日だ」と言った。その盧溝橋事件が何かを、わからなかったりするのだが、「恥ずべき侵略の日付けだぞ」とおじさんは言うのだ、「あの日は宇和島でも提灯行列があった、小学生だったが覚えている。南京陥落のときも提灯行列があった」。

アルバム見ていると、なんだか、おじさんの遺品を見ているようで、おじさんまだ生きているのに、どうも気持ちが混乱するなあ、と思っていたんだけど。

夜、長女さんから電話。施設から電話があったって。呼吸がもうだいぶん弱くなっているって。いまから施設のほうに向かうって。

「かかあ、死んだら、わしどうしようか」
もう十数年前だなあ、おばさんが具合が悪くて入院したか何かのときかなあ、訪ねたら、ふっと素直なことを言った。そんなことも、妻にも娘にも言わなかったろうな。

……と書いていたら、いまのいま、長女さんから電話。亡くなった、らしい。間に合わなかったらしい。

アルバム、娘に渡しに行かなきゃ。