河野きよみさんの短歌

 歌誌「未来」6月号に、広島の河野きよみさんの短歌について、書かせてもらったので、載せておきます。
 大切な歌というものがあると思う。ここには大切な歌があるので。記録と記憶のために。

☆☆

(未来歌人のこの一年 河野きよみ)         

  折鶴を手に空仰ぐサダコ像黄葉舞い散るシアトルの丘
  異国にて黙し耐えいるサダコ像暮れなずむ空にからす飛びゆく

 サダコ像は、広島で被爆、10年後白血病で12歳で亡くなった少女をモデルにした平和の像。1990年シアトルの平和公園に作られた。これまでに2度、腕を折られる破壊行為にあっている。「黙し耐えいる」に深い共感がある。河野きよみさんは広島在住。13歳で入市被爆した。原爆の語り部をなさっているので、アメリカ訪問も被爆者としての訪問であったのだろう。

  セージブラッシュ生ゆる砂漠をひた走るハンフォードへの一本の道
  日本に少女われらが竹やりの訓練せし頃原子炉は成る

 ハンフォード核施設は、原子爆弾作成のマンハッタン計画プルトニウムの精製が行われた所。その原子炉跡を前にして、竹やりの少女との対比に胸をつかれる。原爆投下の本質を衝く歌と思う。そういえば、河野さんの文と絵による絵本「あの日を、わたしは忘れない (ヒロシマ原爆の絵日記)」の表紙絵は、竹やり訓練をする少女の姿である。誤解をおそれず言えば、広島、長崎の被爆者たちの戦後の平和運動もまた、核に竹やりで立ち向かうようなことだった。否、竹やりさえもたず、素手で。対話の力で。広島を訪れたアメリカの若者との再会のことも詠まれている。それらの出会いのひとつひとつが、尊い

  帰りきて孫がヒロシマ語りしとロージーの祖母頬にキスせり
  許してと涙を流す女子学生私は平和の大切を言う

 日本人収容所跡も訪れている。

  くさぐさのキャンプの暮らし聞きにつつ語らず逝きし移民の叔母よ

 広島は海外への移民の多い土地だ。収容所の暮らしをアメリカで聞き、語らず逝った叔母を思う。身内だから語れなかったのか。肉親を引き裂いた戦争だった。

  慰霊碑に献花なしつつ物悲し移民・棄民の言葉うかびて
  原爆の成功祝う記念碑がアシュレイ池辺に巨きく建てり

 「棄民」の痛ましさも「原爆の成功」を祝うおぞましさも、そこで傷ついた者が声をあげなければ見えてこない。そのとき生活史がおのずから、歴史の証言である。

  被爆ドーム保存計画起ちしよりいくばくもなく夫は逝きたり

 戦後の広島。夫は一級建築士として、ドームの保存に関わった方のようだ。

  「広島になぜ原爆が落された?」平和学習の児童らが問う
  「火傷になぜ水を飲まさなかったの」平和学習の児らが訊く
  「八・六にどんな気持でいますか」と平和学習の生徒らが刺す
  「核廃絶ほんとに出来ると思うのか」質問厳しき中学生ら

 広島では見慣れた平和学習の光景だが、こうして詠まれたものと向き合うと、ふと、噴き上げるような悲しみを覚える。子どもらの質問は、本当は、誰が答えなければならない質問なのか。

  一人でもヒロシマを刻みて帰れかし栃木に帰る生徒ら送る


 子どもたちが、託された願いをどうか受け止めて育ってくれるように。

  「会場に被爆の死者の魂が」舞台にて絶句の米倉氏逝く

 米倉氏とは去年亡くなった俳優の米倉斉加年氏だろう。ヒロシマへの共感を偲ぶ。

                          (野樹かずみ) 

                 歌誌「未来」2015年6月号