星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

チョゴリを着た被爆者

新屋英子一人芝居「チョゴリを着た被爆者」を観た。

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名前に聞き覚えがある。

ああ「身世打鈴」の一人芝居をなさっていたのではなかったっけ、と思い当たって、(とはいえその舞台を見たことはないのだが)でもそれはずいぶん昔のことの気がするけど、と思ったら、「身世打鈴」は40年も演じ続けているんですね。

いま85歳。
私の母が生きていたら、84歳だから同じくらい。生きてたら、こんなふうなおばあさんになっているのかしらと思った。


チョゴリを着た被爆者」は、1984年にはじめて朝鮮人や中国人の被爆者の存在を知り、それで演じることにした、と。それから30年近く。


ちょうどそのころだった。私が朝鮮人被爆者の被爆体験の聞き書きしたのも。韓国のハプチョンの原爆診療所に行ったのがその年の秋だったから。


韓国から四国のお寺にお嫁に来たという舞踏家の踊りもあって、すばらしかった。彼女が、あとで、ほんとうに日本人ですかと、朝鮮のおばあさんみたい、と新屋さんに言いながら涙ぐんでいたのが印象的だったんだけど、


昔、私が被爆のお話をきいたときの話し方や所作が、朝鮮語なまりの日本語、広島弁の話し方の癖のようなものも、ほんとにそんなふうで、なんだか、なつかしい場所にもどったような感じがした。

話の内容も。真っ暗になった、それから火が燃えた、そんなことも。目の玉がたらーりとたれさがって、皮膚がはがれて、はがれた皮膚をもって歩いてくる、水くれと川にとびこんで、そのままぷかぷか浮く、そんなことも。家族が建物の下敷きになった。焼かれて死んだ。怪我して帰ってきた。そんなことも。


いろんなことを、思い出した。

でも私は、聞いた話、読んだ話を思い出すだけだけれど、体験したことを思い出しながら、きいた人も多かったと思う。


日本の植民地支配がどんなにひどいものだったかも含めて、凄惨な話なんだけども、語っているこのおばあさんは、ときおりほほえむのだ。

それは昔、学生だった私が向けてもらったほほえみでもある。自分の悲しみで人を傷つけまいとするような、何か気品があり、思いやりがあった。きっと私は、その思いやりに、なついたんだけれども、そういった気持ちも思い出した。


「なにもたいしたことして欲しくないです。ただ、ただ人間として扱ってもらいたい。それだけです。」


はじめに日本名を名乗ったおばあさんは、最後に、本名を名乗って挨拶する。語ることを通して、おばあさんのなかの何かがかわっているのだ。そのあたりの表現もいい。実際に、被爆体験を語ったことがきっかけで、本名を名乗りはじめた人を知っている。


凄い芝居だった。見ることができてしあわせだ。しかも無料で。

終演後、そのまま、観客との対話の時間があって、

被爆語り部の方たちが発言した。もう長く語り部をされている在日の人もいたし、ずっと原爆のことを避けてきたけれど、福島の事故がきっかけで、被爆の体験を語りはじめたという日本人もいた。新屋さんのお芝居に、きっととても励まされたと思う。


メモ。広島の被爆死者14万人プラスマイナス1万人というのが公式発表らしい。でも、その数字のなかに、朝鮮人4万3千人の犠牲者は含まれていない、という李実根さんの話。




パパと息子が、市内まで迎えに来てくれているというので、平和公園あたりで拾ってもらって帰る。

なんのお芝居かときくので、原爆のお話、原爆が落ちたときの話はこわかったよ、って言ったら、

「目がたらーりとでてきたり、皮膚がべろーんとぶらさがったり、川にぷかぷか浮いたり、したんだよね」
って、言う。

ああそうか、毎年、平和学習あるからね。聞くよね。

広島の子ども。