Rについて 3

 朴寿南姉さんの文章が、すばらしく、また圧倒的なので、書き写します。仮の自己を生きるむごたらしさについて。

「自分の自己を憎みはじめたとき、自己の死がはじまったのだ。生きながら打ち砕かれる死を──。それは、人が正気では生きるに堪えられない恐ろしい生である……。わたしがわたしであることが、うとまれ、人間でないものとして、この世に居られないものであるならば、わたしは生きていくことができない。わたしたちは、この世に在るものとして生きていくために、仮りの名を自分のものにして、自分でない仮りの者に自分を似せていくのだ。この世が日本人のものであるのならば、わたしたちは、より日本人(チョッパリ)らしい、日本人に自分を真似ていく。その身振りから、ことばつき、ましてや朝鮮人を軽蔑するその眼ざしまで、そっくり日本人(チョッパリ)のものになっていくのだ。日本人名を仮面に、他人の振りをしていく演技が、タンタロスの踊りのように、永遠のもののように日常化していくのである。」

「しかし、この〈わたし〉が欺瞞であり、他人の目に映っている虚仮であり、いわば見物人を瞞着することをいのち綱に、仮りのこの世の危うい綱わたりをしている道化でしかないことは、仮面に息の根を止めている自分が承知の上のことである。そう、わたしたちは、たしかにこの世の人生に在る者として生きるために仮面に自分を覆い隠した。そして、死にたいほど自己を憎み、否定するうちに、自己を裏切り、わたしがわたし自身でないもの、仮りのみせかけ──仮象そのものに自分を替えていくのである。みせかけを演技ではなく生きていくうちに仮面を受肉してしまう。」

「大向うの喝采を浴びながら、少年は「陽気で快活な」学年のリーダーをつとめる。とびきりなユーモアのセンスとジョークで少年は笑わせる。──少年は周囲が期待し、望まれるままに、いきいきと、〈金子鎮宇 かねこしずお〉を生きたのである。信望と敬愛とそして羨望さえも仮りのわが身に一身にあびるとき、少年にとっては、仮象こそが、在るべき真実を実現する可能性であり、飢えの悲惨から解き放たれる瞬間の永遠なのである。この目くるめく虚こそが実であるところの自分なのである。」

「少年は、いや、わたしたちは、仮象として(それは並の他者をさえ優越する理想のものだ)この世界をわがものにしようとつかのまの虹の橋を渡るのだ。それが、はかない幻であり、化けの皮が剥がれれば、鏡が砕けるように、一瞬にして自分の映像は、その栄光とともに打ちくだかれる。そしてどこにも自分が居ない、非存在の、死の淵に落ちていくしかない不安と緊張に不断に脅えつづけるのである。わたしは自分の悲鳴を聴くように、きょうだいたちの苦悶を聴くのだ──。」

「ぼくはできるだけ坊ちゃんらしく(父は土方で余りに貧しかった)日本人らしく振るまってごまかしてきたんです。中学の終わりごろになって将来のことを考えてみたら、そうするとどんな夢を描いてみてもやっぱり自分が朝鮮人であるために、ろくに食えないと──、おさき、まっ暗になってしまって……。
 もし自分が朝鮮人だということが友だちにわかったらどうしようか、夢の中でも脅えていて、夜、眠れなくなる……とにかく自分の正体がバレないように、バレないように、いつ、どこへ行っても緊張して心が安まるときがない……。
 それで、バレたら自殺しよう、薬、しょっ中持っていました。死ぬか、日本を脱出して、どこか、ぼくを誰も知らない土地へ行こう、本気で思いつめていました。
 ──奈良女子大付属高校から大阪朝鮮高校へ転校した洪少年の回想(『展望』1967年7月号)」

「わたしたちが殺したくなるほど、自己を憎んでいるとき、他者との、いきいきした関係の絆を結ぶことはできない。わたしたちは、自然や他者との関係のいっさいから、遠く隔てられるように、自己からさえも切り離され、ひき裂かれていく。母を失った、あの恐ろしい瞬間から、自己への不安と否認がわたしたちの内面をとめどなく蝕み、破壊していくのである。」

 50年ほども前の文章なんだけれども、過去のこととも思えない。はじめて読んだ18歳のときに、この文章から呼び起こされる人間的な共感にとまどった。なぜ、在日朝鮮人二世の内面の景色を、私自身のもののように感じるのだろう。
 でもそれはそうで、この苦しみは、朝鮮人であることに由来する苦しみと見えるものは、在日すること、この国で生きることに由来する苦しみなのだ。
 自己への不安と否認──この国のありふれた病ではないか。偽りの自己を生きるむごたらしさも。いまいっそう、そうではないか。私たちは対立しているのではなく、ほんとうは同質の苦しみを、むごたらしさを、共有しているのではないだろうか。加害者として被害者として、あるいは共犯者として、あるいは傍観者として。
 思うに、洪少年の蘇生のためにも、民族教育はどれほど大事だったろう。正しい教育が何であるかを決めるのは、どっかの知事なんかでは絶対ない。洪少年たちが自己を偽らず、自尊感情を守ることができるかどうかに、正しさの判断はかかっているのだと思う。
 まだ続きます。