普通の話

朝鮮学校除雪車は素通りする、という話。
こちらに詳しい。

http://anews.jp/p/14515

そこまで冷たいか、と唖然とした。
以前、広島の朝鮮学校の移転が、20年もかかったのはなぜかという話を、聞いたときも、にわかに信じられなかった。
たぶん、ものすごく気を使って、穏やかに話してくださったのですが、私はあんまり気を使えないので、簡単に言うと、住民のなかにいじわるなのがいて、反対運動するわ、県議会議員にもいじわるなのがいて、補助金は出さないわ、とても苦しめたのである。
そんな話を聞いて驚いたと、東京の朝鮮大学校の先生に話したら、ここもそうでしたよ、どこでもそうですよ、とあっさり返事された。

そこに学校があって、雪が積もってるのに、除雪車が来ない、市役所も悪いが、町内にそんなところがあるのに、それを放置している町内会も、冷たいだろう。
目の前の雪の山が見えないのかな、目の前の子どもが見えないのか。
きっと見ていても、見えないんだろう。何が、見えなくさせているのか。

でも、いのちは、国境や民族を超えて、望む望まずに関わらず、つながっていると思うので、他者に対してしていることは、そのまま、自分に対してしていることだと思うよ。



いきなり話はとぶが、「やっぱり生命は永遠なんだろうなあ」とパパが言った。年に何回かの大掃除の話なんだが、町内会のおじいさんたちが、がんばるんである。
「思うに、生命は永遠だと、死が近いじいさんたちは、どこかでそのことを感じていて、だから、せっせとボランティアするんじゃないだろうか。川掃除するじいさんたち見てると、せめて少しでも自分を浄化してから死のうと、しているような気がするよ。次がすこしでもましなようにさ。」

でも、年とってからボランティアするっていうのも、実際はなかなか難しいのではないだろうか。そう思うと、ここのおじいさんたち、下校時の見回りパトロールもするし、なかなかえらいのだ。

私は、パアラランの支援をはじめたとき、「ありがとうございます」っていう、たったそれだけの言葉を、言ったり書いたりすることが、こんなに難しいのかと、自己嫌悪でほんとうにまいった。いろいろと切羽詰まった状況であるとか、たまには言われる悪口とか、そんなことより何より、こみあげてくる自己嫌悪がたまらなかった。
もっとちゃんとした人がやったら、もっとちゃんとなるとおもうのに、ちゃんとしてない私がここにいるという、罪深さのような苦しさ。
でも、見てしまったのに知らないふりをしたら、自分が救われないのである。見てしまったらおしまいなのだ。
あれから17年たって、白状すれば、私は今も、「ありがとうございます」がむずかしい。
そいでいまも、微妙にこみあげてくる自己嫌悪をですね、微妙になだめながら、おじいさんたちの川掃除のことなど考えているんだけど。

たぶんあと、10年か20年後には、おおかたいなくなっているんだと思うんだけど、川掃除するおじいさんたちの後生がよからんことを。



雪かきは、したほうがいい。してあげられる立場にある人は、するべきだよ。
朝鮮学校のためであるよりは、むしろ自分のためだよ。そこに雪山があるのを見てしまって、なのに、知らないふりをしているのは、相当におそろしいことだと、思うけどな。