アルカディア


 風が吹いて、向かいの山がごうごうと鳴る。雨あがりの木々の緑がはげしくゆれるのを、子どもと見ていた。子どもは「やま、やま、みどり、みどり」としきりに言う。きみの心も風にゆられているみたいに。そうして緑に染まっていくみたいに。
 庭の芍薬の赤い花が2つ咲いた。あんまりきれいで見とれた。なぜこんなきれいなものがここに咲いてくれるのだろう。


   アルカディア  谷川俊太郎

長い触覚をもった名も知らぬ虫が
卓の上で行手をまさぐっている
今を生きる小さな喜びの前で
あらゆる思い出は退屈だ

風が木々の梢を渡ってゆく──
そんな決まり文句でしか
とらえられぬ一瞬があって
その時を愛していけない道理はない

しなやかな発条(バネ)のように季節は
らせん状に時を進める
子どもたちの背丈が伸びたのを
喜ばぬ親がいるだろろうか

それと知らずに愛する人々は
どこか遠くをみつめている
おそらくは到ることのできない
他の星の上の土くれか何かを

長い曲りくねった道を歩みながら
みちばたの草の葉に手をふれる
幸福な結末というものはないのに
誰もが一度はお伽話を信じた

私たちはみな永遠の胸をまさぐる子ども
雲の向こうで稲妻がひらめき
はるかな雷鳴が夕立のくるのを告げる
天地創造のその時のまま