椿

椿の原生林を歩いていて、ふと思い出した。昔、椿の花の首飾りをつくったことがある。もうすこし、春。たぶん、お花見のころ。7歳か8歳くらい。
そうだ、20歳年上の従姉と、従姉の娘の、私より4つくらい年下の女の子、それからもう一組の母娘は、従姉の家の近所の人だ、お城山で、お花見したんだった。
椿の花がいっぱい落ちているのを見つけて、長い草か蔓に通して、首飾りを作ったのがきれいにできた。それを、従姉の小さな娘の手にもたせてやった。脳性麻痺で、ひきつったままの腕にかけてやって、それで写真をとった。カメラを向けられると、とまどった気持になって、わざと横を向いたり目を閉じたりしていたのを覚えている。(いま、ちびさんがそんなふうだけど)

あの子、死んだのだ、と思いだして、それからたまらなくなつかしい。
ふじこ、という名前だった。どんな漢字を書くのかは、今も知らない。17歳で死ぬまで、寝たきりで、体がゆがみながらすこし大きくなっただけで、ずっと赤ちゃんのときのままだった。喋ることもできなかったし、固形物を食べることもできないから、ずっとミルクを飲んでいた。

ときどき従姉の家に行くのは、ふじこがいるからだった。小さい頃から、ふじこの枕もとにすわっているのが、私は好きだった。
そこは居心地がよかった。従姉の家が、ではなくて、やはり、ふじこの枕もとが。

高校生くらいになって気がついた。ふじこといると、それまで感じていた、胸のなかの痛みのようなものや、しんどさのようなものが、すうっと薄らいでいく。余分なものが剥がれ落ちて、心がすきとおってゆく。こわばったものがほどけて、やわらかくなる。なぜだろうと思って見つめると、そこには、ふじこの、きれいな黒い目があって、ああ、もっと深い孤独があるんだと、思った。
ある日、学校の帰りに、家とは反対方向のふじこの家に向かった。家にいるのも学校にいるのも、ひどくつらいような日々の夕暮れに。

もっと深い孤独があると思った。
そんなふうにふじこがいると思った。
無力のようで、ゆるぎないやさしさだった。

椿の首飾り、せっかくきれいにできたのを、人にあげるなんて、ほかの誰であってもきっと我慢ならないことだったけど、ふじこへささげるなら、それはとても納得できることだった。首飾りをふじこの腕にかけたときの、従順さに切り替わる自分の気持ちを、思い出せる。

そして、生きる現場で、そんなふうな従順さは、たいていは、忘れている。それはたぶん、不幸なことだ。