「新彗星」──感覚のおこりとともに

同人誌「新彗星」の最初は、笹井宏之さんの「昏睡動物」。
その最初の一首。

感覚のおこりとともにゆびさきが葉でも花でもないのに気づく

それで思い出したのが、古いマンガの一場面。
樹村みのり初期短編集「雨」に所収の「翼のない鳥」というタイトルの終わり近くのカット。ゆびさきから草が芽生える絵。気になったので探してみた。昭和52年が初版の本。だから子どものころ。好きな漫画家だったし、好きな本だった。(最近また新しい本が出ている。「見送りの後で」というタイトルの)

「葉でも花でもない」というのに、ゆびさきが葉や花になる絵を思い出させる。

はじめからジョバンニなどはいないのに樹下ジョバンニの長靴冷える
                  蝦名泰洋「イーハトーブ喪失」

という短歌を、たまさか手にした「月光」という雑誌で見かけるということがなかったら、私はたぶん、短歌にあこがれたりしなかったと思う。
で、自分が短歌書くと、似ても似つかぬものになることに、ふかく絶望しながら、なぜまだ短歌書いてるかよくわからないなと思いつつ、書いているけど、笹井さんの短歌は、14歳や26歳の私があこがれたものが何だったかを、思い出させてくれる。
(でもそれが何かを、私は言い当てることができない)

笹井さんの歌集「ひとさらい」を読んだとき、思い出したのは宮沢賢治で、

水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って

という歌の水田が、岩手でなく、佐賀の水田であることにふととまどい、久しぶりに宮沢賢治の短歌を(好きなんだけど)引っ張り出して読んだら、似てるかな、いや似ていないかも、と思ったけど、でも、なんだか、賢治のひきがえるとなめくじは、笹井さんの歌のなかにもひそんでいそうで。

そらはいま蟇(ひき)の皮もて張られたりその黄のひかりその毒のひかり(宮沢賢治
入相の町のうしろを巨なる銀のなめくぢ過ぐることあり

透明感とおどろおどろしさと。

で、私のそういった印象の、ばらばらの、自分では言葉にできないところにあるものが、何なのか、すこしわかるかしら、と思って、

土曜日の福岡の「ひとさらい」の批評会、楽しみにしています。

心配なのは、ちびさんの風邪。
今朝咳していた。熱はないので幼稚園行ったけど。
熱が出ませんように。
福岡行けなくなってしまう。