パアララン・パンタオ近況

マニラ空港に着陸直前、上空からパヤタスが見えました。湖の右下に茶色く広がっているのがゴミの山。一部草が生えていて、その麓に学校があります。

パアララン・パンタオ(思いやりの学校)。 新しい校舎になったパヤタス校と、三階建てのエラプ校。 29日夜から2日朝まで、短い滞在をしてきた。


レティ先生、元気でした。
と書きたいけれど、再会して最初に言った言葉が、「まだ生きてるよ」。
3月と5月に2度倒れたというので、ものすごく心配したのでしたが、それ以降は、発作も起きず、体調も、いまは落ち着いているということです。でも血圧とコレステロールの薬が欠かせないし、頭痛と、夜中の咳もつらそうだし、膝も悪いので、歩くのも難儀そうで、胸が痛かったです。息子が部屋にエアコンを入れたので、すこしは過ごしやすそうでしたが。
気持ちはいたって元気で、レティ先生の声が教室に響くと、騒がしかった子どもたちがピタリと静かになるし、帰るとき、「長生きしてよ」と言ったら、「あなたより長く生きるよ」と言ったけど、ほんとうにそうしてください。まだ68歳だし。


ゴミの山への立ち入りは禁止。管理はまた一段と厳しくなっていて、治安の心配もあるらしく、とにかく学校の外に出たら、ひとりで歩かないほうがいいし、写真も駄目だというので、一度、子どもと一緒に、ゴミ山の麓の子どもの家を訪問した以外は、学校で過ごした。
毎日、ゴミの山にのぼって、麓の集落を歩き回っていたころが夢のよう。いまゴミが捨てられているのは、学校から離れた場所のようで、学校は蠅も蚊もほとんどいないし、臭いもしない。(それでも50メートルほども山のほうに歩くと、臭いはしてきた。)学校の裏の道をゴミのトラックが通っていく。
移転前の学校があった場所は、もうゴミのなかに埋もれて、土をかぶせてあって、そこにゴミのなかから発生するメタンガスを集める設備がつくられている。そのガスで電気をつくって、いま試験的に、ゴミの山の常夜灯を点灯させているらしい。


生徒数は去年より100人増えて、両校で270人ほど。希望者はもっといるが、受け入れはこれが限界。マリベルが、パヤタス校の新しい先生になっていた。
私がはじめてここに来たとき、彼女はパアラランの生徒で、11歳だった。6年間ここで学んで、それからハイスクールに編入して卒業。ごみ拾いをして働きながら通ったのだ。その頃、家は、ゴミ山の麓の、もっとも貧しい路地の片隅にあった。卒業後数年して、奨学金を出してくれるスポンサーを得て、大学に進学したが、スポンサーの行方がわからなくなり、半年休学。それでパアララン・パンタオから残りの奨学金を出すことにして復学。今年の三月に卒業して、ここの先生になった。
すごくうれしい。


06年に1日だけ結婚式で来たときに寄ったけれど、クラスの様子を見るのは、02年の夏以来で、6年ぶり。いまいる生徒たちは、そのころ、まだ生まれてないか、赤ちゃんだったのだ。

子どもにとって6年は長い時間だ。小さかった子どもたちが、すっかりお兄さんお姉さんになっていて、ただもう驚きつづけた。
グレースは(ゴミのなかに赤ちゃんのときに捨てられていたのを拾われて、レティ先生が養女にして育てた)はじめて会ったとき5歳だったのに、もう19歳になっていて、今年ハイスクールを卒業する。フィリピン大学と、ほかにもふたつ、大学の入学試験を受けると言っていた。2000年に心臓の手術を受けているが、その後の体調は安定しているみたい。
毎朝5時半に起きて、弁当つくって、重たい鞄もって、朝6時には出かけていた。ハイスクールの授業は7時から。

フィリピンの朝は早い。お手伝いさんたちも(生徒の給食と掃除ほかの雑用をしてくれる)6時前には来ているし、マリベルとジェーンのふたりの先生も、それから子どもたちも、7時前には来ている。授業は7時半から。


現場はありがたい。次に何をすればいいか教えてくれる。
あれこれの雑用や、込み入った話の通訳は、一緒に行った太田君がしてくれたので、ずいぶん楽だった。いろいろとありがとう。学校まで足を運んでくれた留学生のみなさんもありがとう。
よろしくお願いします。


帰る日の朝、「台風が来ているから、飛行機は飛ばないよ。アテ・カズミは帰れないよ」とグレースが、まじめな顔でからかう。「嘘だあ」「本当だよ。台風3つもきてるんだから。」
いえ、無事に予定通り、2日に帰国。

また、おいおい書きます。

チャイナエアライン。着陸間際に飛行機のなかでかかっていた曲がこれ。
California dreamin ↓