春の雨

向かいの森の桜が咲いた。ツバキも咲いてる。森では鹿の家族がうろうろしている。道をはさんで、向こうは鹿の家族、こちらは人間の家族。今日は春の雨。
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で、家族の話。朝ドラのおちょやんを見ていて、行方不明の弟のヨシヲがあらわれたときの話。彼が、世話になったヤクザの親分のことを「親父」と呼んだときのなまなましさ。その呼び方には覚えがある。

むかし、17歳で行方不明になった私の弟が、二十歳前後の数年間、大阪のヤクザの「親父」に世話になっていた、らしい。七年くらいしてヤクザもやめて帰って来たとき、指はないわ刺青あるわで、くらくらしたけど。ちょうど昭和天皇が亡くなるころだった。自分の父である「親父」と、そのとき世話になってた土建屋の「親父」と、ヤクザの「親父」の三人を、弟は「親父」と呼んでいた。なんでヤクザって、食いつめていたときに飯食わせてもらったから。七年ぶりの弟は、布団をめっちゃきれいにたたむ子になっていた。

弟が家を出たのは、母が死んだからだけど、母のいない家に父と一緒にいられなかったからだ。あのとき、母が死ぬかもしれないことに、いちばん怯えたのは父だったと思う。そんで人間は、怯えると残酷になる。私は家を出ていたけれど、父は一番近くにいた弟に、つらくあたった。16歳や17歳の子が、母が死ぬということに向き合わねばならなくなったときに、父親から、仕事ができない(弟は父と一緒に働いていたが、仕事の覚えは悪かったらしい)とか、生活態度、母に対する態度がどうとか、細かく言い立てられて、「母さんが死んでもいいのか」と脅される。弟が家を避け、母の近くにもいられないのは、父の近くにいたくないからなのは、傍から見るとよくわかったのだが、父だけはわからなかった。

死んでゆく母に対して、とてもやさしいふるまいの父が、顔を私や弟に向けると、別人のような苛立ちを見せるのが、ぞっとしたな。私もまだ18歳だった。

ずっと後になって、十数年もたって、父がぽつりと私に言った。「あのときは、子どもたちへの憎しみがとまらなかった」。そうか、あのぞっとするものは、憎しみだったのか、と腑に落ちた。わかってるんならいいや、と思った。とりかえしはつかないし。わたしたちはひとりずつ、なんとか自分で生きていくしかないわけだし。

母の病気がわかってから死ぬまで、たった半年だったのに、異様に苦しくて、異様に長い時間だったのは、父の憎しみのせいでもある。いちばん壊したくないはずのものを、父は自分で壊していたわけだけれど、父も自分自身を、どうしようもなかったんだろう。母のいない家に、弟は戻れなかったのだ。

そんなことを、おちょやんの、留置所での父のテルヲの告白の場面見ながら思い出した。

 

数年前に、だれもそんなこと聞かないのに、父がぽつんと言った。父は9人兄弟の真ん中で、下に弟たちがいた。小学校の低学年のとき、赤ちゃんの弟を背中にくくりつられて、遊んでいた。(背中の子は、上の兄からじゅんじゅんにおろされてきたらしい)。
冬にそうやって遊んでいて、背中の子がおしっこしたことに気づいたけどやっぱり遊んでいた。あとから弟が熱を出したけど、子どもが熱を出したくらいで、病院に行くということもなかった。その次の日、学校にいたら、先生に家に帰れと言われた。弟が死んでいた。両親は一言も父を責めなかった、と言った。
だれも責めないけど、自分をゆるせなかったのは、父自身だったんだろうな。

なんでもないふうに話すので、なんでもないふうに私も聞いた。

昨日、久しぶりに義父母さんに会う。
義父さんが、もう90になるので、車の免許を返上するつもりだという。それで今乗っている車に乗らないか、ということになって、車もってきてくれた。義母さんも一緒。義母さんとは一昨年の夏以来、義父さんとも秋以来。

一緒にお寿司食べに行く。

義母さん、立ったり座ったり歩いたりが不自由になっていて、もたれてすこしずつ、ゆっくり歩く。「毎日、未知への冒険よ」と言う。

もうここに来ることもないだろう、と覚悟しての遠出のようでもあった。
息子、おばあちゃんが買ってくれたピアノで、おばあちゃんのために弾く。きらきら星。テンペスト。で。小遣いもらってる。

小遣い、明日には青春18きっぷになってるだろう。