あなたなる夜雨の葛の

台風6号の影響で、九州各地がドミノ倒しのように雨になっていくその直前に、うまく逃げ切って、息子は四国に渡った。4日に鹿児島を出て、青春18きっぷで、大分、熊本、長崎をまわって、7日の夜に臼杵、8日は宇和島運輸は終日欠航予定だったが、オレンジフェリーは昼までは動いた。早朝4時台に乗船して八幡浜へ。
離れて心配するのはしんどい、というより、心配するパパの相手をするのが、めんどうくさい。

私たちも午前中に出て、しまなみ海道を渡って八幡浜へ。海沿いは晴れ間もあった。伊予下灘の駅に寄る。台風で雨予報だったせいか、人も少なかった。

息子は半日八幡浜で、山に登ったり(山の上から列車撮ったり)、締め切り間際のレポート書いたりしていたらしい。

宇和島滞在中、降ったり止んだりだったけど、涼しくてよかった。父の古墳(父が半世紀以上前に市の仕事でつくった大きなすべり台)に挨拶。

9日、息子は予讃線を撮りに行くといい、パパと私の兄はつきあった、らしい。

私は友人と4年ぶりに会った。退職して、両親の介護をしている。やりたいことはたくさんあって、と言う。郷里の中世史をあきらかにしたいんだって。
宇和島の中世?と聞いたら、宇和島に中世はないよ、と言われた。江戸以前、宇和島は海だったのだ。周辺の郡部だったほうにいくつもの城があり、有力者がいて、高知のほうの長曾我部とか、松山の河野とかと、仲良かったり仲良くなかったり、していた。
いきなり、頭のなかの地図がかわった。周辺と真ん中が入れ替わってしまった。
おもしろそうなので、ぜひまとめて、本にしてもらいたい。
しかし、町も周辺も、過疎化すすんで、やがて消えてしまうのではないかしらと、こころぼそい感じ。

10日は、予土線、台風で止まっていたが、午後から走るというので、予土線沿いに。
松野、松丸駅。お盆のころに帰省できたら、ここの花火大会に来たかったけど。

久しぶりに芝不器男記念館に行く。受付の人に、番城小学校の方ですか?と声をかけられて、それは私の出身校なので、「はい、そうです」と答えたんだけど、台風なので、番城小学校の今日の見学は中止になったのです、ということでした。

遠くからなぜ?俳句をする人ですか? と聞かれる。芝不器男を知っているのが、不思議らしい。
俳句はしない人ですけど、このあたりの高校に通ったら、不器男を偏愛する国語の先生とかいて、刷り込まれるじゃないですか。

 あなたなる夜雨の葛のあなたかな /芝不器男

そのように刷り込まれた句。年表を見ると、不器男は私の祖母の2歳年上で、私の兄の高校のはるかな先輩ですね。
展示。煙草があと2本しかないと日記に書いていたり。たがいに賞めあうだけの句会になんか出ない、とはがきに書いていたり。

雨だから、屋根のあるところがいいと思って。この記念館はすごく好き。すごくなつかしいところに帰ってこれた感じがする。

 

「鰻食べさせてやりたいけどな。金がないわい」と兄が言った。このあたり、鰻は川で獲れたので、叔父がもってきたりしてたから、魚も鰻も、買って食べるものではなかったが。いまはこのあたりでもずいぶん高い、らしい。
四万十大正の道の駅に、鰻の混ぜごはんがあるというのを、旅番組か何かで見た記憶。で行ってみる。たどり着けた、鰻のまぜごはん。1200円。おいしかった。川に降りてゆけるのもいい。葛の花もう咲いていた。

 

江川崎の駅まで戻ると、ぼろぼろの駅舎の壁がきれいにペンキを塗られてた。廃線にならなければいいけど。あちこちの高校が、統合や廃校で消えていくし、通学の子どもも減っていくし。

松丸駅2階の温泉に行く。間伐材の処理のためらしい、駅舎の横に薪が積んであった。薪のお風呂。

夕方、ひとり暮らしの叔父たちの家をまわる。下の叔父は、城山のガイドのバイトをまだ続けているらしい。きれい好きだし料理もする。兄は「おかず取りに来い」の電話がかかると、おすそ分けをもらいに行く。

上の叔父が。私の名付け親ですが。一番仲良しの叔父ですが。「生きとる間に会っていけや」と兄が言った。もう80歳なのか、と信じられない思い。

市営住宅の、その家に入ると、入る前から、臭う。釣りが好きで何十年も庭先で魚をさばきつづけてたせいもあるんだろうが、もう、掃除もしない、万年床の人だから。
しかも、エアコンもない。
何年か前に暑さのせいで、糖尿の持病もあるんだけど、てんかん起こして入院して、そのときに、兄が掃除して、布団も新しく買って、一応なんとかしたが、叔父が戻って住み始めたらもとのもくあみなのだ。
台所は床が抜けてるし、畳も壁もぼろぼろだし、兄のほかに訪れる人もいない。どうすれば人間らしい暮らしになるのか、わかんない。

夏のあいだ、氷を抱いて過ごしている。

裏口からのぞいて声をかけると、布団の上に起き上がって、「よう」と笑った。もとより無口の人なので、まあ、それだけ。以前は、釣りに連れてってくれたんだけど、楽しかったんだけど、もう、無理そう。2019年が最後だった。

フィリピンのゴミ山の、山ののぼり口あたりの臭いだった。それ以上きつくなると、麻痺してどうでもよくなるんだ。

兄は、その下の叔父の庭に昔つくったプレハブの物置と、死んだ父が暮らした家の両方を行ったり来たりして暮らしている。どちらにもエアコンはない。私も一人暮らしのときはエアコンなかったから、まあそんなもんだと思うけど、最近の暑さは過酷すぎる。

お金がないので、なんともならない。

父の家は部落にある。ここも床が抜けているし、雨漏りするし、ぼろぼろだけど、大家は取り壊す気力もない。父の死後は家賃なしに、荷物おかせてもらっている。

部落は、市が、昭和50年代に、改良住宅というコンクリートの長屋をつくって、住民たちを住まわせた。(父が住んでいたのはそれ以前の家、昭和20年代ころの、らしい)。

その改良住宅がもう古いし、人もいなくて荒れてゆくし、なので、取り壊して、新しい建物をつくることになった。すでに半ば、できていて、すでに引っ越している人もいる。父は兄と暮らすつもりで申し込んでいたから、来年くらいには、残りもできあがって、兄も入居することになるのだろう。

消えてしまうと、そこに何があったかも思い出せなくなってしまう。改良住宅ができる前も、私はここに何度か来たことがあって、友達の家もあったし、友だちの家に遊びに行って帰らない弟を迎えに行ったこともあるけど、どんなだったか覚えてない。
匂いだけ覚えてる。

鶏の匂いのするところと、豚の匂いのするところと、牛の匂いのするところがあった。20年近く前までは、闘牛の牛も、近くで飼っていた。いまはなんにもいないけど。

30年前、はじめてフィリピンのゴミの山を訪れたとき、ゴミの臭いに混じって、鶏の匂いと、豚の匂いがした。あのとき、自分の子ども時代がよみがえった。それまで東京で手足が消えてしまっていたような感覚だったのに、子ども時代の感覚と、自分の手足がよみがえった。こんなことってあるんだな、と不思議で、うれしかった。魂が、もといた場所に戻った感じ、大丈夫だ、私、生きていける、とわかった。

言葉が通じないことなんか、なんでもなかった。むしろ、言葉は通じないほうが、嘘がなくてよかった。

ことなど思い出した。この路地と、あのスラムはつながっていて、私は、かつてこの路地にあった匂いに、恩がある。
来年はもう、この改良住宅は、ないだろうな。

夏の帰省終わり。11日。しまなみ海道からは息子の運転で帰る。