デクノボー

前期、大学の実習で、不器用なわたしの子は、班員の足ひっぱりながらがんばっていたらしいんだけども、そのときに、宮沢賢治の「ミンナニデクノボートヨバレ」の一行を、ずっと心で思っていたらしい。

雨ニモマケズ、の詩ですね。
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ

なつかしかったのは、その詩、子どもが3歳4歳のころに、お風呂で暗唱してた詩なんだわ。絵本にあったの、なんでも覚えてしまっていたころに、いっとき毎日お風呂で唱えてましたね。こんなところで、きみを支えてくれるなんて。

本も詩も日ごろ読まない子ですけど、詩は、小学校の終わりころに模試で出会った立原道造の詩を好きになって、立原道造詩集だけ持っていって、ときどき読んで癒されているらしいですけど、「宮沢賢治の詩集あるかな」っていう。あるよ。3冊も4冊もあるよ。もってってよ。

「詩は無力じゃないさ。だってぼくらは詩や短歌を読んで生きて来れたんだもの。」
と、蝦名さんが生前、時評(洪水9号、2012年)に書いていたこと思い出したけど、ほんとだよ。
その文章はさらに続いていた。「詩じゃないから無力なんだよ」と。震災のあとに、詩は無力だとか何とか、詩人たちが言っていたのかな。

四国からもどって、10日くらいは家にいた。息子の机の上に本を積み上げていたら、彼は、ゲオルギウの「二十五時」を読みはじめた。
その本、私が高校生のときに読んで衝撃を受けた本。私の生命は私のものだ、コルホーズのものでもなんでもない、心に染まぬ生き方はできない、といって自殺する男のセリフを、書き写した記憶があるよ。その言葉を胸に、私は父と大喧嘩して、家を出ていくと宣言したのだった。生きたいように生きられないなら生きたくない、と16歳の私は言ったんだけれども、家のために13歳から働いていた父に、娘の反乱はどう見えたんだろう。たぶん、父も私も、両方ともがわけもわからず怒鳴りあっていたのだ。

読み返したいけど、紙は黄ばんでるわ、文字は小さいわ、無理だわ。

それから「おろちをとりにいく」と、家族でドライブ。奥出雲に、トロッコ列車おろち号を撮りに行く、と。気温31度を涼しく感じた。

前期は全科目合格、再試験がないとこの日わかって、よかったねえ。

芸備線沿いに、緑の野山のなかを。