走馬灯

夏の旅の話を。さて何から。

古い手紙のなかから、茶色い布の切れ端のようなものがでてきたときに、それが、十和田湖畔のこぶしの花びらだとおもいだしたときに、十和田湖、行ってみようと思った。
でも、そんなにすぐに、とはまだ思わなかった。

友だちが、子どもと使った青春18きっぷの残りがあるから、使わないかと言ってくれた。息子が使うだろう、と思った。
ある人に、まちがってメールしたら、電話がかかってきた。ああ、この人に会いに行かなくちゃ、と思った。息子さんが亡くなった知らせを受けたのが、もう一年以上前なのだった。何年前に会って以来かしら。18きっぷの残りは私が使うことにした。

息子が、中高の友人たちと、東京やら横浜やら箱根やらの旅するらしい。修学旅行のやりなおし? 男子1ダース余りが。息子は、現地集合の日よりも前に、栃木だか茨城だか千葉だか、がたんごとん追ってうろうろしたいらしく、青春18きっぷで行くというのでついていくことにした。8月25日。始発で出発。17時間後に東京に着く。乗り換え乗り継ぎいっさい、息子のあとについていくだけなので、自分で考えなくていいのが素敵。
大井川って、大きな川なんだなあと、思ったなあ。新幹線なら一瞬で渡るけど。
私は品川で降りた。あの子がそのあとどこまで行ったかは知らない。

コロナ以来だから、東京、4年ぶり。いつも泊ってた安くていいかげんなカプセルは、電話してみたら休業中で再開の見通しは立たないらしかった。あそこでずっと暮らしてたおばあさんはどこへ行ったかしら。
いつも上京すると会ってくれた人たちが、2人も亡くなってしまって、宿までないという心細さだけど、このまま行かないと、ずっと行けなくなりそうな気がして、行く。
会ってくださった人たち、はじめましての人もなつかしい人も、ありがとうございました。楽しかったです。

ちょっと近くに行ったので、昔、暮らしてたアパートまで行ってみた。大家のおばあさんが亡くなったことは知っていたんだけど。(家は廃屋同然に見えたけど、親族がひとり暮らしているらしい。)親しくしてもらっていたお隣の家の呼び鈴鳴らしてみたら、おじさんとおばさんが、きっかり22年分年齢を重ねて、でも昔と何もかわらない感じでそこにいてくれたのが、なつかしく、うれしかったです。
「ごはん食べる?」って声かけてくれるのも。

はじまりと終わりに吹く風がそっくり、と亡くなる1年くらい前に、蝦名さんが書いてきたことの意味は、わからないんだけれど、最後に入院するときに、病院の名前教えてくれながら、少し驚いてる感じだった。行ってみたら、亡くなった病院は、通っていた大学のほんの目の前だった。

ニコライ堂、のぞいたらミサだったのかな。何語かわからない、でも、主よ、と聞こえたから日本語かもしれない、勤行をしばらく聞いた。

友人が案内してくれて、蝦名さんが住んでいたアパートも、はじめて行ってみた。それなりに、暮らし、というものがあったんだろうなと思った。あたりのごちゃごちゃした下町感のせいかもしれない。アパートの前に手押しポンプが残ってた。

 

昔、東京で暮らしていたころ、私、東京をきらいだった。不自由で苦しかった。町歩きなんて、お金がないせいもあるけど、疲れてみじめなだけだし、したいとも思わなかったけど。いま、親しい慕わしい人たちがいてくれるぶんだけは、いてくれたぶんだけは、東京好きかも。
来るたびに、少しずつ、街と和解しているかも。

そのあと、仙台に行って、青森に行って、また東京に戻ってきた夜に、また友人たちに会ったら、驚いたことに、30年も昔の、私がもう全然覚えていないようなことを、思い出させてくれる、というか、いやいや思い出せないんだけど。それでもそれは私であるらしい。
死ぬときに、記憶が解凍して、走馬灯を見るっていうのがほんとなら、私、あんなことあった? そんなことした? なんかめちゃくちゃな、わけわかんない、びっくり箱から出てきた記憶のあれこれに、いちいちびっくりして、ぎゃっ、っとか叫び声あげそうな気がするわ。

いやな記憶は、むしろきちんと思い出して決着つけて、死ぬときに思い出して苦しむようなことはないようにしよう、とか心がけますけど、忘れてることについては、どうしようもないというか、走馬灯で出てきたら、そのときびっくりするよりしょうがないのかな。ああ何が出てくるんだろ。

自分自身との和解は、どんなふうに。

仙台。東京からは新幹線。人に会う約束の時間まですこし時間あったから、巡回バスに乗ってみた。青葉城跡に行ったら、空も街も広かった。私の母方の先祖は、伊達の殿様について、仙台から宇和島に来た家臣らしいので、一度は来てみたかった街でした。