生はさいころ死はやつぎばや

 天満橋、天神橋のつぎの橋生はさいころ死はやつぎばや (蝦名泰洋)

去年の7月26日に亡くなった。蝦名さん亡くなって、ああ、1年たつんだなあと思っていたら、

今年の7月26日に、ニュースが告げたのは、ある死刑の執行。秋葉原の無差別殺人の。犯人が、ぼくと同じ高校だと、蝦名さんが言ってたの思い出したけど。
やまゆり園の事件から6年目、という報道も。

ついで7月31日。私の従姉のひろみ姉ちゃんの命日。2年過ぎた。従姉に、最後に会ったのは20年以上前。祖母の葬儀のとき。そのあとの姿を思い浮かべられない。家族の最後のひとりだったから、遺影もなかった。家族の遺影も一緒に焼かれた。

 

子どものころ、あんなに親しく行き来したのに、高校を卒業してからは、帰省しても訪ねなかった。娘の富士子が亡くなったあとの初盆に行ったことは覚えてる。脳性麻痺で寝たきりの女の子がいて、16歳で亡くなった。富士子のいない部屋が、さびしくて、それから訪ねることができなくなった。

富士子は、子ども時代の私に、居場所をくれた。富士子の傍にいるのが、好きだった。4つ年下の、きれいな女の子。

写真、私のアルバムのなかに、残っていた。20代の、まだ結婚する前の従姉と私。夏のお城山の写真は少し記憶にある。高校生の兄も一緒だった。だから兄が撮った写真。

 

私たちの頃は、たいてい高校へ進学したけど、20歳年上の従姉のころは、中卒があたりまえだった。田舎の貧しい家の子は。まして女の子は。従姉は、家を出て造船所に働きに行った。怪我をして帰ってきたときか、母病気の嘘の電報で呼び戻されたときか、見合いして、結婚することになった。ほんとうは、勤め先に好きな人がいたらしい。でも地元で婿養子にきてくれる人でなければと、母親に泣かれた。母ひとり娘ひとりだったから。

ひろみちゃんは、娘と、夫と、母親とを看取った。気丈だった。亡くなる直前、腹水がたまって身動きできなくなるまで、病院に行こうとしなかった。

亡くなったとき、無一文だったし、偶然に、私の兄が訪れたのでなかったら、行旅死亡人として、無縁仏になるところだった。生まれ育った町で、半世紀同じ路地に住んで、なんで行旅死亡人。娘が亡くなったときに、お墓はつくった。そこに娘と夫の名前と亡くなった日は刻まれている。でも、従姉の亡くなる前の年に、とても高齢で亡くなった伯母の名前はない。その墓に収められてはいるのだが。従姉の名前もない。名前を刻むお金が、ないからね。忘れないために、いま書いてるんだけど。

母親の里とは、母親が死んだときに絶交していた。大喧嘩したらしい。面倒かけるなと言われたのは、きっと葬儀代とか、お金のことだろうなと思う。

従姉の入院代と火葬代は、役所が出してくれたけど、遺骨をひきとったら、そのあとの埋葬の費用や、家賃や電気水道代の未払いや、兄と私と、お金の工面であたふたしたの、いま思い出したら笑える。

従姉が亡くなる5か月前に、私の父が亡くなっていて、ふたりの死のあとで、気づいたんだけれども。もしかしたら私、なにか勘違いしていたかもしれない。

進学することを、父に反対されたせいかもしれない。近所にも、家族や親族にも、大学に行った人なんかいないのに、こんなにお金がないのに、家はあれやこれや問題抱えて大変なのに、女の子のくせに、自分だけ勝手な生き方をしようなんて、家族のことも考えず、出て行くなんて、
父の声だけではなくて、聞こえない声がたくさん聞こえて、
私は、たぶん、なんていうか、裏切者のような感じで、誰がそういったわけでもないけど、私はそう感じて、裏切って出て行く私は、
もう帰るところはないなと、
家を出るとき思った。

その秋に母が死んで、もう本当に帰る家はないなと、思った。
自分が受け入れてもらえるとも思わなかった。

でも私、そんなに悪いことしてない。裏切ったり欺いたりしてない。
と、父とひろみちゃんの相次いだ死のあとに、ふとそう思って、そう思ったら、それまでそう感じていたことが、なんだか不思議だったけど、あの後ろめたさは何だったのか。

もしかしたら、父は、娘が出て行くのがさびしかったかしら。私は、私がいないことで誰かがさびしいなんて、夢にも思わなかったけど。ほんとに、全然。いなければ少なくとも迷惑はかけずにすむ。自分にできる親孝行はそれくらいだと思っていた。

 

故郷で生きていないのは、ほんのなりゆきで、裏切って追放された人間だからじゃない。お盆に帰るのは、私が幽霊だからじゃなくて、普通に子どもをつれて帰省するだけ。だけれども、私は幽霊の感覚半端なくて、故郷の景色のなかを、ただ透明にゆきすぎる。

 

写真は残らなかったけど、富士子の肖像画は残ってたから、形見にもらった。誰がかいた絵かわからない。従姉の勤め先の飲み屋の客に、絵を描く人がいたらしい。富士子が14歳、亡くなる2年前。一度だけ見たことのある絵を、忘れられなかった。

写真は、従姉と一緒に焼かれてしまったのに、絵は、この絵が富士子だと誰も気づかなかったせいで、残っていたのが、不思議だ。それが私のところに来たことも。

また会えてうれしい。

 夭折の少女の肖像画のような思い出がある あなたに わたしに(野樹かずみ)

私が忘れたら、きっともう誰も富士子のことを覚えてない。あの子がどんなふうに笑ったか、どんなふうに黒い大きな目をくるくる動かしたか、どんなに白くてすべすべな肌だったか。どんなふうに、傍らに、私を、いさせてくれたか。

写真が残っていないという話をするなら、父は亡くなる前に、断捨離のついでに、写真も処分していた。残っていたのは、40年前、母が生きていた頃の写真だけで、だから遺影の父は、若くて、遺影の母と同じ年ごろ。父のたくらみかもしれない。


兄の写真は、兄が結婚するときに、私が整理して、一冊のアルバムにまとめたのに、兄に聞くと、ない、と言う。離婚したとき、捨てられちゃったのだ。「よほど憎らしかったんやろなあ」と言った。それはまあ、自業自得だわね、と思う。
兄の高校生の頃の写真を、私はとても好きだったんだけど。

故郷に対して、そこにいた人たちに対して、私はいなくていい、いないほうがいい、とずっと思ってきたんだけど、ひろみちゃんにも富士子にも、また会いたい。また会いたいと、思ってもいい。私が進学するとき、ひろみちゃんが、かわいい文房具や爪切りを買ってきてくれたこととか、思い出して泣きそうになってる。