パヤタス・レポート 1 到着の夜

ほんというと、飛行機が苦手です。でも窓際にすわる。
客室乗務員のお姉さんたち見て、このきれいなお姉さんたちはまだ死なない、だからこの飛行機は大丈夫、と言い聞かせて乗ってます。
台北経由のトランジットがまた、だるいんですが、23日の朝に出て、夕方、ようやくマニラに到着したときには、涙が出てきたわ。
ああ、地面だ。

で、着いたらいきなり元気。
ジュリアンが「ウェルカムバック」と迎えてくれる。荷物ももってくれる。駐車場ではディヴィドが待っててくれる。家族に迎えに来てもらったみたいな気分。

ジュリアンはパアラランの卒業生。お姉さん(みなし子の彼をひきとった隣人の娘)のジェーンはパヤタス校の先生をしている。ジュリアンはゴミ拾いしながら高校を出て、パアラランの奨学金で大学を出て、06年からマニラのオフィスで働いている。結婚して去年、赤ちゃんが生まれた。男の子。
「カイルは大きくなった?」ときいたら、いまもう10キロあるよ、と写真を見せてくれる。大きくなったけど、立ったり歩いたりはできない。寝たきり。いままた毎週病院に薬をもらいにいっている。病名を誰も英訳できないので、わからないんだけど、わりと深刻な障害があるんだろうと思う。生まれたときも1ヶ月以上も入院していて、去年抱っこしたとき、のけぞるようなひきつけるような体の感じで、心配だったけど。
ジュリアンの赤ちゃんに、靴を買ってたんだけど、せつなくて、渡せなかった。

ディヴィドは、レティ先生の姪のマジョリーの夫。以前マジョリーはパアラランの先生をしていた。ディヴィドはゴミのトラックの運転手をしていたこともあったんだっけ。運転上手。去年、台風で帰りの飛行機が飛ばなかったときには、マニラの渋滞をものともせず、何度も空港まで迎えに来てくれた。たいへんやさしいクヤ(お兄さん)だ。でもたぶん年下かも。滞在中、車を出すときはずっと運転手をしてくれた。

マニラは涼しかった。ときどき雨が降って、それがまたちょうどいいくらいで、避暑にきたみたい。
マニラの街は渋滞。中心部では、建設中の大きなビルがいくつもある。ちょうど労働者たちが仕事を終える時間、トラックに、何十人もの労働者がつめこまれてというか、ひしめきあって、運ばれてゆく光景は、なかなかぞぞっとした。

途中でジェイ(レティ先生の末息子)と合流して、日本は暑いよ、というような話をしていた。フィリピンの暑い時期も38度や40度になるらしく、日本はフィリピンに似てきたね、貧しい人たちがエアコンもなくて、死んでいくのはどこの国も同じ。ママ・レティの体のために、新しいエアコンを部屋につけたよ、という。孝行息子なのだ。

その暑い時期に、3月31日に、ビン・バギオロが死んだ。パアラランをずっと支えてくれていた教育NGOの代表。まだ49歳だった。
みんながどれほど悲しんだか。ビン・バギオロのことは、また書きます。

途中で、ジェイと別れて、リテックスの市場で、バロット(孵化寸前のあひるの卵をゆでたもの)を買う。雨のなか、ジプニーを待つ人の長い長い列が、市場のはしのほうまでつづいていた。

3時間かかって、パアラランにたどりつくと、テレビはバスジャックの実況中継をしていて、食事の間も、バロットを2つ食べてビールを飲んでる間も、まだつづいていた。雨がはげしくなり、バスのなかで銃声がして白煙があがるのに、まだ突撃しない。悪夢も悪夢すぎると、現実味がない感じだ。ようやく突撃してかたがついたのだろう、バスのまわりにわらわらと人が集まっていった。
香港の観光客が乗っていたバスが、汚職事件がらみで、解雇されたことを不満に思った元警察官にバスジャックされ、結局犠牲者8名を出した、という凄惨な事件だった。
香港は、出稼ぎのフィリピン人も多い。つらくないだろうか。

学校ではいま、レティ先生(70)、養女のグレース(21)、ひ孫のひとりのクレアアン(11)、お手伝いのダイダイさん、奨学生のひとり、ハイスクール2年のロザリンが暮らしている。去年と同じ。

それから日本人の女の子ひとりが、ジュースパックのリサイクルバッグを日本で販売するビジネスをしようとしていて、近くに縫製工場があるので、毎日そこに通うために2週間ほど滞在するということだった。

ダイダイさんもロザリンも働き者。滞在中、白状しますが、私はコップひとつ洗わなかった。そのあたりに置いておくと、いつのまにか誰かが、きれいに洗ってくれている。
いいのか。こんなに甘やかされて。
まったくしあわせな里帰り。グレースの部屋でいっしょに寝る。