どん底で笑え

どん底でこそ笑え、だったかな。

何日か前、たまたま夜中にテレビをのぞいたら、漫画家の西原理恵子が出ていた。NHKの番組。彼女の高知の子ども時代の話は、自分の郷里の景色につながってきて、えらく親しみを感じる。貧困もギャンブルも骨身にしみるほど身近な景色だった。世界中どこにでもある地獄だけど。

番組は途中からしか見ていないのだが、亡くなったご主人と出会ったころの話から。戦場カメラマンだった彼が、カンボジアで出会った光景のこと。
内戦で殺された村長の取材をしていたときに、村長の子どもたち、父親を殺されたばかりの子どもたちが、カメラを向けると笑った、というのだった。アジアの人たちはよく泣いてよく笑うのだ、と。
何もかも奪われた無力のときに、自発的に、何か能動的にできる人間らしいこと、というのは、笑うことだと、そういうことを言っていた。

子どもたちは笑う。フィリピンでゴミの山が崩壊して、数百人が犠牲になった10年前の事故の2週間後、私は現場にいて、夜、死んだきょうだいたちのために、ろうそくを灯している子どもたちに会った。なかなか火がつかなくて苦労していたので、ライターでつけてあげたんだけど、私がカメラをもっているのに気づくと、いきなり笑ってポーズをとったのだ。
その写真あるけれど、ニュースレターにつかったのは、彼らがお祈りしている後ろ姿のほう。
消息不明の生徒たちを探して避難センターを歩きまわったときも、みんな目があうと笑ってくれた。こんなに傷だらけの人たちが、いたわるような笑顔を向けてくれたこと。励ます言葉なんかないから、私も笑うのだ。子どもたちはとびはねた。

考えてみれば、一番最初にあのゴミ山にのぼったときから、私がしてきたのも笑うことだけだった。それ以外にそこで、できることがなかったし、言葉だってわかんないし。それは今だってそうなんだけど。
あのとき私、ほんとうに、どれくらいぶりに、心から笑ったろう。

そう、笑うんだよ。

すると一緒に見ていたパパが、でも日本では、そんなふうに笑ったら、いじめられるんだよな、と言った。

……たしかに。

母親の葬儀の日に私が笑っていたことは、兄がそっとたしなめてくれたので覚えている。今日は、みんなのいるところでは笑うなよ。
その前かそのあとか、もう顔も名前もおぼえていない親戚から、母親が死んだのに、何、この子は、人が死ぬというのがどういうことかもわからんの、と言われたのだった。あなたよりはわかってる、心のなかで言い返したけど、あの棘、今だに刺さってるな。

それからまた別のどん底のときに、ある朝私が笑ったら、それはどんな下心か、誰かに入れ知恵されたかと、男に言われたのも残ってるな。あれはぞっとした。

それからまた、私に子どものことをきく年上の女性に、話していると、一緒に楽しそうに笑ってくれていたのがふいに、あんたは楽しそうに言うけれど、母親なんだから脳天気じゃだめなのよ、大丈夫ってあんたはいうけど、世の中あまくないよ、いじめだってあるんだから、と突然冷や水をかけられる。
ああそんなことはわかってる。私だっていじめられた子どもだ。

たちまち、そんな場面を思い出して、滅入った。
それから、押し殺してきた言葉が、ふっとあらわれてくる。

私は、あなたたちをきらいです。

ああ。

なんでこんなときにへらへら笑ってるんだ、という程度のことは、たくさん言われてきた気がする。この世へのなけなしの愛情なのにさ。

そうやって知らず知らず教え込まれるのだ。人とつきあっていくというのは、つまり生きていくということは、泣かないように、笑わないように、することだ。そのうち、死にたくなるのは道理だな。

どん底の人の笑いを、傷つけることを、気づかずにしているかもしれないと思うとこわい。ものすごくこわい。そんなことをしてしまうよりは、自分がどん底にいつづけることのほうがずっとましだ。
どうかそんなことを、せずにすみますように。